花形装飾活字を愛でる その90


「工夫した対称法」というか、 使っている方でマンネリ化してる方は多分ボチボチいるような気がします。 そういう方必見の方法です。 どうしても最初はオブジェクトの複雑な美しさに目が行き過ぎて、 それをそのままドーンてな具合使ってしまいがちです。 それやとヴィネットと変わらず、 花形装飾活字の本領とは言えないのです。 いえいえもちろんそのままでも十分なんですが、 それをちょっとだけテクニシャンな技がこれです。 マンネリ化するくらいに使われた方は、 違う形でもある一定の線の流れがある事に気付いている事と思います。 つまりそれらを対称的に組み合わせる方法です。 そうする事によって、 きっと今でにないオブジェクトそのものの美しさに、 組み合わした時の美しさもプラスされ、 より一層良くなるかと思います。



花形装飾活字を愛でる その89


ようこそ花形装飾活字の世界へ! という事で前回までの内容を踏まえてもう一回ここからやんなきゃイカンと思った訳です。 これを機に一度最初から読むといいかもしれません。 今回書いた内容と言うのはどっちかというと、 このエンスヘデ活字鋳造所シリーズ60の花形装飾活字をアウトラインする前に、 ふつふつと考えていた事なのです。 その迷宮の後、 アウトラインの作業でいろんなものを得て、 その得たものを生かしたものが、 今まさにこの文章を打ってるノートパソコンのデスクに、 所狭しと新しい花形装飾活字の原画が散らばりまくってます。 いいとこまで来てます。 がまだまだなので公開は今年中の後半くらいとしか言えない感じです。 後、4回くらいくじけないといけないらしいです。 この作業は本当に楽しい。 花形装飾活字を考えるという事と、 グラフィックデザインを考えるという動作がめちゃんこ似ていて、 行き詰っていたグラフィックデザインに対する考察が、 ずずーいと大きく幅を広げています。 花形装飾活字を考えるという事は同時に印刷を考えるという事にもなるので、 それに対する意識も以前にも増して気の効いたものになってきているし、 間違いなくあらゆる面で上達を遂げているものを感じています。 ああ、 そうだよなあ、 デザインってこうだったよねえって具合で、 初めてデザインに触れたときの感動に近いものがあって、 意欲むんむんでくじけながら作っております。 それこそ一時でなくてずっと使えるものを考えているので、 期待していても損はないと思いまする。 次回からはこんなトーンで息抜きな内容になりまする。



花形装飾活字を愛でる その88

それは与えられたクリエイティブですか? もしくは必要とするクリエイティブですか? 誰かに頼まれたクリエイティブですか? 誰かと共有しているクリエイティブですか? 自分の為のクリエイティブですか? モノを作る時に望ましいのは限られた飽和状態を作るという事です。 とくにデザインの場合は、 コップ半分の水を満杯にする事は出来ません。 もししたとしてもそれが満たされたクリエイティブと言えないからです。 せいぜい満杯の表面張力ギリギリで、 そこからこぼれ落ちる水滴ぐらいは拾えるかもしれません。 よく考えなければなりません。 今、目の前の作らなければならないものは、 本当に必要なものでしょうか。 実は不用で役に立たないものではないでしょうか。 役に立つもの立たないもの、 必要なもの不要なもの。 その基準は何がどこで満たされるというのでしょうか。 どうしても、 クリエイティブを中心に考えるから合点がいかないのです。 重要なのは要素です。 そのコップに満たされている水こそが、 クリエイティブの源泉でもあります。 繰り返しになりますが、 とくにデザインの場合は、 一言で書くと「統合主義」ですから、 せいぜい表面張力の滴り落ちる水を啜るくらいの事しか出来ません。 単に職人的な考えや意識の向上は、 デザインという作業の前提では不用で無駄なものという、 位置づけであるとしか言えない訳です。 その中には意志や意見、 ましてや奇抜やアイデア、 こだわりなんてものは捨てなくてはいけないのです。 デザインとはクリエイティブを行う上での手法や考え方の1つでしかありませんから、 そこには個が存在してはいけないのです。 そして重要なのは「要素」です。 あ、もう1つ、 デザインは「決める」という言い方も出来るかもしれません。 随分前に、 デザイナーは日常で「意識」しない瞬間がある事を恥じなければらないと書きました。 それこそがより良いフォローの実態であり、 デザインの根本でもあると考えています。 デザインが必要で困っている人にこそデザインは必要なのです。 それに気付く事がデザイナーの技量であり、 その必要としている要素こそが、 デザインをするという事になる訳です。 大切な事は、 それ以上の行為は有難迷惑であり、 つまり、 役に立たない不用なものであると言えるのです。 そうならないように、 心地よい丁度良い具合を考えるのがデザインであり、 決して、 デザインとはこういうものなんだよなんて言うアンポンタンがいますが、 それは本当に大きな勘違いであり、 デザインの質とはなんら関わらない影響のないものであるのは、 キチンと理解しなければなりません。 あくまで要素ですから。 あれはデザインでこれはデザインではないという言い方は変なのです。 ただ、 必要なデザインか、 不用なデザインか、 役に立つデザインか、 役に立たないデザインかは、 要素を見極めるデザイナーの技量そのものであると言えるのです。 そこに圧倒的な違いが出るのだと思います。 と、 言ってもこれから、 デザインはどうあるべきなのかとか、 社会的なデザイン批判を繰り広げる訳ではありません。 さーていよいよ花形装飾活字。 次回へ続く。



花形装飾活字を愛でる その87

姿勢を示すという事はとても大切な事だと思います。 現在のデザインの在り方として、 時にはデザイナーは自分の主義主張を必要悪として使用するけれど、 基本的にはフォローすべき対象を受け止めるべき偶然性に、 どれだけ身を任せる事が出来るかという事なのでしょう。 デザインは計画はではありません。 意図は企み等はあってはいけないのです。 何を偶然とし、 何を必然とするのか、 それを見極めた時に役目が達成されます。 けれど、 これは言葉で理解するものではありません。 デザインする人、 クリエイティブに関わっている人は、 無意識の内に自問し自答し続けています。 もしこれを無視し続けているのなら、 自分自身のクリエイティブに疑問を持たなければなりません。 そして答えを出さなければならないのです。 姿勢とはある意味での自答であり、 変化し続ける対象でもあるのです。 現在にある花形装飾活字は、 姿勢を示し続けた結果です。 何が変わるべきで、 何が変わらないでいるのでしょうか。 重要なのは、 その両方をキチンと探ること、 そして新たなに自問自答を行えるまで、 じっくり見定めて考える事にあると思います。 その姿勢も、 新しい花形装飾活字が生まれる活力(化学変化)として変わらない部分なのでしょう。 ただ気をつけなくてはいけないのは、 自問自答そのものに疑問を感じてはいけないという事です。 正しさや間違いでは答えを他へ依存する結果になります。 すなわちそれは姿勢ではなく依存です。 デザインでもなければクリエイティブでもないのです。 とまあ、 抽象的ですが、 次回は少し具体的に書きます。



花形装飾活字を愛でる その86

しかし、 今回は「デザイン」という視点で、 花形装飾活字と向かい合いたいと考えています。 花形装飾活字の存在位置についてはこれまで書いてきた通りですが、 「デザイン」するという発想となると、 これまでの手法通りという訳にはいかないと思います。 デザインは言わばフォローです。 花形装飾活字においてフォローするという事はいかなる状況を言うのか、 これをまずは定義として揺ぎない軸に据え置かなくてはなりません。 なによりも難しいのは花形装飾活字そのものもフォローする存在であり、 そのイメージになんら影響するものではないという事です。 イメージが無いとされるものをデザインするという事は、 若き日の失敗ぐだぐだ自分最高デザインの時代の事を、 今一度甦らせなければならないという、 今まで否定してきたというか、 社会におけるデザイン存在では否定され続けている、 所謂、プロのデザイナーが学生的なデザインだよねえとか言う領域を、 きちんと考えるという事なのだと感じています。 今、考えたら、 プロの方達が否定(見下すとも言うか…)するあの学生的デザインは、 結局はデザインという商業の仕組みの上では成り立たないだけで、 デザインの質そのもので考えたらば、 よっぽどまともな事してたよなと感じるのです。 まあ下手といえば下手なのでしょうが、 そんなの当然で、 マジという部分では認めるところがあったように思います。 日本におけるグラフィックデザイン衰退の肝はここにあると見ているのですが、 だいたいからして技術うんぬんで物事言い過ぎなのです。 間違ってないけれどそういう事じゃないんですよね。 そんなの太ってる子に将来お相撲さんになれと言ってるのと同じちゅうか。 と、その話はかなりズレテいくのでとりあえず話を戻しまして…、 イメージの存在しないデザインの在り方ってのは、 ずばり姿勢の提示だと思うんですね。 デザインなんて、 物を作る時の思想でしかないし、 その夢みたいな幻想をいかに形にするかを考える時に、 デザインという手法、思想がスゲー便利なんです。 花形装飾活字の場合ってのは、 それを具体化させた代名詞みたいなもんで、 あくまで活版印刷という文字を整理する為に特化しているものなんですが、 それを踏まえても上質な思想の1つである事は間違いないでしょう。 その上でデザインをする、 デザインという視点で花形装飾活字の可能性を広げる、 ということはどういう事なのでしょう。 そもそも、 それを図案にして示すというよりも、 デザインするという視点を新たなに提示し、 例として図案化するというのが、 近いのかもしれません。 おそらく今、グラフィックデザインとして認知しているものは、 グラフィックデザインという1つのあり方でしかないはずです。 とくに海外、ヨーロッパが先進的なデザインとして日本で注目を浴びる事がありますが、 そういう事じゃないのです。 単に、 おそらくですが日本において、 グラフィックデザイン1つにとっても、 その在り方を勘違いしている可能性が高いと言えるのでしょう。 芸術に対する認知度の低さもまた、 現代の「日本人」の無関心が生んだ最悪の結果だと考えます。 が、 そういう事書いてるとカルチャーうんぬんに話が及んでしまうので、 次回は花形装飾活字に戻します…



花形装飾活字を愛でる その85

ところにより、 前回の誤字脱字は凄かったですね(毎回か…)。 伝達性の高い図案とはなんなのでしょう。 海外のように、 気の利いた一句ととも記されるブラックジョークなイラストもそれに近いような。 非常出口に代表されるようなサインやマークやら。うーむ。 ただしこれらは図案とは呼べません。 あくまで日本語活字書体(イメージ)と寄り添う事の出来る、 イメージではない図案。 図案なのにイメージではない。 そうなのです。 花形装飾活字そのものなのです。 しかし、花形装飾活字の場合というのは、 あくまでイメージよりの発想のものであり、 その伝達性の高まりに併せた、 あくまでイメージとしての活字であると言えます。 なんかややこしいですが、 この場合はというのは、 イメージが先行しなくてはいけません。 日本語書体がイメージなのに対して、 それがイメージから波状した伝達性でないといけないのです。 逆に英文を加えた場合に違和感の生じる手法を生み出す事から始めるべきなのです。 その上で新しい花形装飾活字を考えるという動作が正しいように思います。 中でも竹久夢二がいいラインを渡っていたようです。 前回でも書きましたが、 もしかしたら理屈ではない部分ではありますが、 きっと日本語と組合した時にイメージとして成り立つ図案を目指していたはずです。 その1つの回答があれら(図書館とか図案見れる場合があるので是非)という事だったのでしょう。 イメージの強みを持つ日本語書体。 日本語書体そのものが既にイメージなのですから、 比率でいうところの、 イメージ3:空白3:活字(日本語書体)4という、 現在の方法では間に空白を入れることが選択肢としては多く選ばれているようです。 空白を入れないことで、 ちらしのように息苦しいものになるのもまた、 納得のいくところ。 なのだとすれば、 それをフォローすべき図案の在り方を考えるべきです。 有名、無名いろんなデザイナーがその試みを提示しているようですが、 知りうる範囲では完成の域にはほど遠いようで、 その原因も随分前に書きましたが、 デザインする「人」が地べたとするアイデンティティの不安定さが招いているのだと見ています。 う、まだ続きそうです。



花形装飾活字を愛でる その84

3:7。 これはポスターにおける活字とイメージの黄金比率です。 活字が3でイメージ7。 メッセージが7でイメージが3とも言えちゃうか。 単に技法でしかないけれど、 こういうのをいろんな分野やシーンで見極めていくと面白かったりします。 かならずしも3や7である必要もないし、 基準を知る事で変化への足がかりが生まれる。 変化とはこの場合は、 アルカリ性と酸性の液を混ぜた時に変なガスが発生する状況に近い。 いわば現代のグラフィックデザインはその比率のプールと言い切っちゃえる訳です。 重要なのはイメージが10で成り立つ場合が発生しているという事。 逆に活字10で成り立ちもします。 あくまでこの2つが重なりあう快感みたいなものがあって、 住み分けが出来ているという事になります。 つまり、 活字はイメージではないという事になります。 これは英文に比べて日本語書体の扱いのしにくさの原因の1つとして挙げられます。 が、 花形装飾活字が実は日本語の書体が英文の書体は違った趣を持つという事実。 これは見捨ててはいけないと思います。 イメージとしての強みを持ち、 その中に活字としての役割を与えられた日本語書体において、 花形装飾活字という比較的イメージよりに対して整理性をメインに持つオブジェクトが、 寄り添う事で新しいグラフィックデザインが誕生しているのだと感じます。 欧米的なデザインをそのまま日本語でやろうとすると無理が出るのは、 英文がイメージに付き添ういい関係に対して、 日本語でそれを行う場合に、 イメージとイメージですから所謂ところの欧米的なデザインに出来る訳がないのです。 近頃では、 イメージとしての文字を最大限にまで押し殺した書体もあるにはありますが、 その特徴を無くしてまで欧米「風」にする行為に疑問を感じずにいられません。 この時。 竹久夢二の名前を思い出します。 彼は日本語においていち早く感覚的にはありましょうが、 その理屈に辿りついた最初のグラフィックデザイナーであると言えるでしょう。 彼のイラストは単純性と伝達性に優れており、 これは日本画を表面上(文献ではそういう感じで書いてます…)のみサラリと学んだ、 たまたまの偶然性が生んだ奇跡のイラストならぬ、 まさしく「図案」であるのでしょう。間違いなく。 彼のイラストは実に日本語の書体と合います。 それに気付いて実行に移したのが千代紙な名刺なのは置いといて、 これは、 先日書いた友禅の雛形図案との関係性にも繋がります。 花形装飾活字との共有は無理でしたが、 それを1つのグラフィックデザインとして配置した場合に以外に合うのは、 上記で述べた事が要因であると考えられるのです。 あ、時間がきてしまいましたので今日はこのへんで。 次は伝達性に優れた図案について書けたらと思います。



花形装飾活字を愛でる その83

活字におけるデザインの限界点、 すなわち花形装飾活字の限界点でもあると言えると思います。 残念ながら、 コンピュータを使用した現在でも、 その伝達は活字に依存しています。 最近ではtomatoなんてデザインチーム(そうチーム向こうはチームでデザインが出来てていいよね)が実験と銘打ってなんかいろいろやってますし、 特にヨーロッパの方ではやはりデザインの発祥という事もあって、 グラフィックデザインに対する実験が実践とともに(ていうか日本は心がせまい) いろいろやられてるみたいですが、 あ、あくまで日本で手に入る情報です。 なんかスゲーのんがあるぜ!ていうのが是非教えて欲しいです。 でね、 まだまだ活字のかっこよさの魅力に打ちのめされてるって訳です。 まだまだ使いこなせていないし、 時代が変われば人が変わればその使いようも変わってくる。 そのおかげで限界点を気にする事なく活字を使えているのだと思います。 考えなければいけないのは「方法」にはかならず限界と欠点があるという事です。 万能な「方法」なんてないんです! 目を覚まさないとダメなんです!。 ただ、 その趣向における人間の興味のまま、 永遠に続くパズルのように、 しかもその完成は未完成でも、 ある種の快感を得る事が出来ます。 だからこそ活字は利用され続けているし無くならないのだと思います。 なんとも便利です。 こんなにも便利な幻想が今まであったでしょうか。 しかもそれを紙に刷るなんて! 現在ではコンピュータにも表示されて! その利用はテクノロジー、 さっきも書きましたが時代や人が変わる事で、 その限界線は変化し続けています。 同時に花形装飾活字は装飾ではありますが、 活字の1つだと考えます。 変化し続ける活字の利用とともに、 その装飾の存在はあるはずでした。 が、 現在では廃れています。 その装飾性のみが重んじられたせいで、 1800年代の後半頃から、 写真や、それに伴う印刷技術の変貌の波に押されて使われなくなりました(徐々に)。 コンピュータ以後のデザインの世界では、 回顧的な要素として使われる場合はあるものの、 その使用は限定的で実践で中心で、 という訳にはいかないようなのです。 残念なのは、 その整理性にこそある活字の美学が置いてけぼりにされ、 画面のイメージに注釈してしまっている事です。 写真の伝達能力、イラストの伝達能力は、 言葉ではない新しい快感なのは否定のしどころでは無いのはわかるのですが、 というのは時間が来てしまったので次回に続く。



花形装飾活字を愛でる その82

とくに否定論ばかりでもありません。 当初は友禅の雛形図案を原案とし新しい花形装飾活字を作る意図にありました。 可能性としては、 両方が追求しつくされたものであるという事が挙げられます。 そのエッセンスをウマク吸い出し融合する事で、 なんとも使えるものになっていたと思います。 具体的には四季の要素を版を組み合わせる事で表現できるようにし、 それを図案としてではなく、 文章を整理するツールの1つとして完成させるというものです。 例えば「すすき」という1つのテーマを決め、 そのカテゴリーで装飾を作り、 組み合わせる事で整理性に加えて、 季節や風景、情景に至るイメージを構築出来ればという考えです。 単にパターンやルールによる装飾ではなく、 茶の世界や菓子のように四季を織り交ぜる事で、 使う側、もしくはそれを摂取する側が、 一過性に留まることの無い、 形式としてのデザインを作れると思っていました。 今回はこの考えをボツにしましたが、 惜しいと考えています。 今、新たに花形装飾活字を作ろうとした動機として、 日本における花形装飾活字の扱いの失敗。を感じているからです。 日本は「見栄え」を重視するビジュアル的な文化を根底として持ち続けています。 それはつまりイメージを先行して捉える方法。 物事をイメージとして捉えるクセみたいなものです。 逆にヨーロッパから伝えられた「デザイン」という方法は、 それまでの日本の美意識を分解するに足る、 まったくからしてこれも真逆な手法だったのは周知の事実であると思います。 一応書いておきますと、 「物事を見てからイメージする」という行動そのものであった訳です。 これは日本における「イメージで物事を見る」とはまったく性質の異なるのは、 前回、前々回と書いて参りました。 その中で花形装飾活字をイメージの部分だけで捉える事によって、 あの「賞状」に代表される装飾が出来上がったのだと思います。 あくまで意匠の世界。 それから半世紀は狂ったようにデザインの世界の虜にされます。 今までなかった価値で構築するが故の新鮮さ、 その影で根底にある文化としてのイメージ像やら、 これは一からやり直さないとダメという事です。 もう一回書くと、 惜しいとこだったんですよね。 視点としては間違っていなかったけれど、 結局あの「賞状」的なものになるところだったのだと思います。 単に花形装飾活字を使うのであれば、 作ればいいのです花形装飾活字を。 ただそれは多くの人が既にやっているし、 ある程度の成功も収めているのですよね。 と書きつつ次の視点が見つかりそれを模索中なのですが、 基本としては間違っているのではなく、 何をデザインとするのかという事にあるのでしょう。きっと。 そして今回の友禅の雛形図案という考え方は、 間違っていないがデザインではなかったというとこです。 ほいじゃ。



花形装飾活字を愛でる その81

では、 花形装飾活字と友禅の雛形図案は可能性を共有する事は出来ないのでしょうか。 答えはイエスです。 共有する事はないでしょう。 もし出来た、したとしても、 花形装飾活字とは呼べない、 もしくは雛形図案とは呼べないものとなるのは明白だと考えます。 何故なら、 その質に決定的な誤差があるからです。 ただしそれは類似してるからこそ身余る部分でもあると思います。 花形装飾活字は伝統的なアラベスク紋様を元にしています。 それは写本から印刷技術の活版という流れなのは話がズレルので置いといて、 その基本は唐草にあり、 これは日本の伝統工芸にも多く用いられる所謂、 唐草模様と呼ばれる装飾と一致する部分でもあります。 が、 重要なポイントでもあります。 整理します。 花形装飾活字のそもそもは活字であり、 その活字の発生は写本もしくは装飾写本にあります。 装飾写本とは調べればもっと奥がありそうですが、 某宗教を布教、教えを広げる為のものである事を考慮に入れたとして、 その目的は伝達性にあると考えられます。 つまり活版印刷における印刷技術の目的とは、 伝達性にあるので、 この場合の花形装飾活字とは、 罫線のように文章をより伝える為に作られたものであり、 その上で装飾性における美意識の部分を最大源に高めたものであるのです。 友禅の雛形図案とは、 現在ではその目的は幅を利かせているが、 友禅とは染色技法の1つであり、 あくまで今回、「友禅の」と付けたのは、 参考にすべき現代までも生き残っている資料であり、 その技法を用いた雛形図案こそが、 最高のものであると認識するからです。 琳派の図案とすべきかもしれません。 あ、多分和風とされている図案のほとんどは琳派からのものです。 間違いなく言い切っておきます。 これも説明すると長くなるので今回は端折って書きますが、 興味ある人は書籍が結構出てるので読むとなかなか面白いです。 とくに田中一光のグラフィックデザインはこの一連の流れに強く影響を受けたようです。 で、 友禅の雛形図案に戻ると、 この図案というのは日本画でもある訳です。 日本画の在り方とは「手本」が全てだと言われています。 山の描き方、動物の描き方、植物の描き方、 1つ1つ全てに「手本」がありそれらを習得した者が画家とされていました。 その手本の修派の1つが琳派という事になるわけです。 江戸の末期になるとこれらに反抗してロックに目覚める画家の話は置いといて、 これは「茶」「日本舞踊」「華道」…etcの世界でも同じ考えですね。 派という考え方が日本における芸術を支えてきた訳です。 でで、 これらを雛形にし図案として扱ったのが友禅の伝統工芸群です。 装飾性、美意識の高められたものに、 生産性を加えたものであると言えると思います。 そして、 花形装飾活字と友禅の雛形図案。 逆ですよね。 生まれた目的や理由や性質は凄く類似しているのに、 逆なんです。 共有出来そうなんだけど出来ない理由がここにあります。 この事例は現在におけるグラフィックデザインの喪失感にメスを入れれる素晴らしい事例なんですが、 この話はまたの機会に。 ただし可能性についてはまた語れると思います。 続きそうです。









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