花形装飾活字を愛でる その120



理想は一定のルールの元でランダム性を作り出す事です。 不確定要素をいかに作り出すか。 西洋の花形装飾活字とは逆の発想です。 ルールを作れば作るほどランダム値は大きくなり、 ランダムに配すれば配するほど、 それがルールになるような在り方を今回は採用しました。 日本の美意識というものは、 目に見えない感覚のようなものが多い。 味覚にしても嗅覚にしても、 余韻のようなものを全面に押し出しているように思いますし、 作り出すというよりかは、 選び取っているという意識が強いようです。 西洋の場合は、 人が作りしものと自然が作りしものを別に見ているけれど、 日本の場合は、 自然は自然として、 人は人として、 別に見ているのだけど、 キーワードとしては、 利用や再現、もしくは融合、調和といった具合で、 人が自然に対する感じた事を構築し選び取っているように思います。 石も加工するのではなくって、 どこからか拾ってきてそのまま置くような動作、 その置き方を、 石を操作するのではなくって、 石本来が持つ自然性と人の存在を掛け算のような重視で配置する、 その偶然性が「作り出す」事象を美意識にしているのだと考えています。 それは西洋が組み立てて整理する文化にあるのとは逆で、 組み立てない事で、 自然発生したルールを掬い取った作法を利用し、 それらを組み合わせる事で、 あのような庭が完成しているのではないでしょうか。 という事は、 日本における建物と庭の石が織り成す関係というのは、 単なる飾りや視覚的な部分での話しではなく、 建物と自然の区別を人が常に感じる事の出来る、 自然的なランダムを作り出すルールのようなものであり、 これこそが今回の目指すべく理想である訳です。 これを、 新・花形装飾活字『水草』に照らしあわした場合に、 装飾a(美意識としての)、装飾b(整理性としての)、活字、人の4つにまず分ける事が出来ます。 まず今回は約310個の図案を用意しました。 前回までに図案1つずつで言うと勘違いしてはいけない部分として書きましたが、 これはとくに石をモチーフにした訳ではなく、 また『水草』をモチーフにした訳ではありません。 芽生え、苔むすのような日本人特有の美意識をグラフィックデザインとして定着させたものです。 その上で、 これらを川辺に転がっている石ころに見立て、 製品版では整理する事なく円形に配しています。 これは上記の、 要素をルールとして組み上げていくのではなく、 気に入った形を拾い上げていき、 それらを活字と人(搾取するという意味の人)との関係と、 実際の美意識との掛け合わせで配置していけるようするというものを、 再現したものです。 狙いとしては使っていく内にレゴのように、 自分の気に入った形、または作法のようなものが生まれてくるでしょうから、 それを独自に整理しファイル化してもらう事なのですが、これは後々書いていきます。 つまり、 今まで視覚的に日本の庭としてきたものを感覚化(もしくは意図)し、 感覚としての美意識で感じていたものを視覚化したものが、 今回の花形装飾活字『水草』という具合なのです。 その結果、 活字との関係において、 今までとは根本的に違うタイポグラフィが生まれる事になりました。 少し大げさかもしれませんが、 活字そのものを装飾化する事によって、 より今までのタイポグラフィよりも活字そのものの力が増しているように思います。 そして、 日本の庭との関係において、 もっとも気を配ったのは、 装飾と活字の関係を限定的にならないようにした事です。 それは、装飾が必ずしも石(要素としての)である必要がなく、 活字も人(存在としての)である必要がないというものだからです。 これは、あくまで関連性の問題であり、 言葉でくくれるものではありません。 ただ、日本語書体において重要な事が飾る事ではなく、 緩和剤的な存在としての装飾性と、 組まれたときの、 庭と石との関係が「丁度良い」という事を、 人(この場合は活字ですね)が入った時にどうなるのか、 という観点において、 これはグラフィックデザインとしての技法能力が問われますので、 使う人に委ねるしかないと考えております。 また、 「作法」についても、 日本の庭というくくりで言うと、 まったくの違う分野ですし、 汲み取る事は可能ではありますが、 今回、作り上げた図案は、 それを限定するような作りをしていません。 つまり作り上げていくのではなく、 作り合わせていく方法なので、 「作法」そのものも使う人によって、 シーンや媒体によって変わるという事です。 とくに具体的な物質をモチーフにしていませんから、 まず情報がいかなるモノかという事が、 前提になっています。 う、またもや伝わったかな…。 今までの装飾的な在り方とは違う上に、 それがタイポグラフィに与える影響というのは、 実際に使ってみて凄く大きく、 明らかに現存している方法でのやり方とは異なるドキドキ感があるというか、 単なる和風ではなくって、 日本がもしタイポグラフィやグラフィックデザインを最初に開発していたら、 みたいな感じになっています(おおげさか)。 これについては説明書的な感じで、 いまのこの基本説明が終わったら実践とともに書いていけたらと思いますが、 このやり方って、 別に『水草』じゃなくてもいける(アカンがな…)という事に気付いたんです。 でも今のとこ『水草』が一番いい答えのような気がしますし。 他でボクの知ってる範囲では見た事がないのでどうなのでしょう。 とりあえず、 水草の図案や組むという発想の基点についての概要は、 今回で大体書けたので、 次からは結局何を作り上げたのかという事も含めて、 概要編、後半戦に突入です。 質問やわからない事がありましたら、 メール(printers_flowers@fengfeeldesign.org)か、 ツイッター(http://twitter.com/fengfeeldesign)までお寄せください。 次回へ続く。



花形装飾活字を愛でる その119



集合体としてのイメージについてです。 つまり個々の造形ではなくって、 活字として組んだ時のイメージ構築の拠所についてです。 復習として、 過去の西洋のものは、 「飾る」という要素と「組む」という要素の2つを両立する為に、 直線と曲線の部位をある一定の計算の元(例えば片方ずつ)で、 罫線として役割と装飾としての役割を1つの図案に設けるというものでした。 その結果、 個々の図案に役割を与えつつ、 上記のルールを守る事で、 組んだ時の統一性と整理性、 そしてなによりもの美しさのイメージを構築する事が出来ました。 それは英字との関連性を重視し、 情報の端末として、 なおかつ活版という技術においては、 最高の装飾術までに高めました。 もちろんそれは、 英文字においての長所であり欠点でもある、 文字そのものの無装飾性と、 それが故の情報の階層化と区別化の下手さをフォローしたものでした。 では、今回の「水草」では何をすればいいのでしょうか。 日本語書体は、 それそのものが装飾の為、 西洋のような装飾まで高めると、 画一的な紙面になる事は今までも書いてきましたし、 どのように落としこんでも、 組み合わせる事で複雑さを生み、 結局同じ事になるのです。 それよりも大きな問題点があります。 それは縦組みが出来るという事です。 縦組みと横組みを合わせただけで、 既に情報の区別化は文字の大きさが同じでも可能であり、 大きさだけを変化させたとしても、 その階層化は可能となるのです。 縦組みと横組みそのものに合わせる事の出来る、 また、英字にも対応した花形装飾活字、 それは一体いかなるものなのか、 思考は続きます。 ヒントはやはり庭にありました。 散々書いてきましたが、 西洋の庭は囲い、形を定着させる事が基本となります。 これは今までの花形装飾活字にも同じ事が言えます。 ところが日本の庭は囲ってはいないのです。 「飾る」ものではなくクッションのようなもの、 場を支配する空気を柔らかにするもの、 彩るのような主張ではなく、 主役を引き立てる緩和剤のような存在だったのです。 そしてこの場合の主役とは、 ずばり活字の事を言うのではないでしょうか。 実はもう一つ重要な違いがありました。 「イメージの方向」です。 前にイメージの所在と書きましたが、 それとは別に、 圧倒的に日本の庭は「内から外(つまり外から内にイメージの流れがある)」を見るものになっているのです。 逆に外から見ても何も面白くないものなのだと思います。 これは西洋の庭が、 建物を彩る、または庭そのものを楽しむ美意識が「外から内(つまり内から外にイメージの流れがある)」にある事が、 花形装飾活字に多大な影響を与えているのですが まさしく、 文字を飾るのではなく、整理する訳でもない、 脇役としての存在が、 日本語書体に合う花形装飾活字になるのではと考えたわけです。 いよいよ本題に入りそうな予感。 つづく。



花形装飾活字を愛でる その118



何故、この形に至ったのでしょうか。 その事について触れていきたいと思います。 最初の方のデッサンは、 ごくごく有り触れた形を作り続けました。 まずイメージを落とし込む作業から開始し、 雲や星、花火や植物、風景、月、建物、家紋…etcetcetcetcetc........ 日本語そのものの装飾性とダブらないイメージの在り方を探りました。 難しいのはオブジェクトの構築時にどうしても装飾性が発生するという事です。 どのような形にしろ「飾る」意識では日本語と重なってしまう上に、 上手く形にしたとしても整理性の部分として劣ってしまい、 単なる挿絵のようなものになりました。 そうやって、ありとあらゆる形を描き続けていると、 気になる形も出現し始めます。 それは「楕円」でした。 それも完璧な「楕円」ではなく不完全なものが良い事にも気付き始めます。 たしか、ちょうどこの時くらいが茶室の現象にも気付き始めた頃だったように思います。 ただそのままだと個々が独立し意図が汲まれたとしても、 花形装飾活字として生きるかどうかという点においては、 質が低くなると判断しました。 それに加え、 当初は鉛筆でのデッサンをおこなっていましたが、 この頃から筆と絵の具(黒に近い青、ほとんど黒)でおこなうようになっていました。 何を直線とし何を曲線とするか。 そこには鉛筆では意識できないものがありました。 筆だと線が太いのです。 形を描く場合に鉛筆だと往復しなければならない。 が、筆だといわゆる一筆で可能になる場合が多い。 それは書の動作に近づいていく事になります。 形を作る上での意識の変化は、 根本的な考え方を変える事になります。 その変化はすぐに現れました。 それまでは1つのモチーフの元に描く作業でしたが、 1つの出来上がった一筆に対してどのような事が起こるのかという事に集中し始めました。 筆で楕円を書き続け、 心地いい気になるものに関連性や形を加えていく。 木を植えたり、 草を生やしたり、 石を付けたり、 雲にしてみたり、 風景として組めるようにしてみたり、 いろいろ試した結果、 辿りついたのがこの形「水草」です。 石を表現した訳でもなく、 水草を表現した訳でもなく、 全てを統合した美意識としてのオブジェクトとしました。 あれだけの画像と文章でこれを見抜いた方がおられて、 マジでスゴイと思いました。 ずばりその通りです。 「芽生え」「苔むす」(言葉借ります)といった日本独自の感覚の要素を、 具現化しグラフィック化したのがこれです。 囲う方法論とは逆にというのも後々書いていきます。 それが組まれて、 実際に紙に印刷されるという事は、 今まで日本画や友禅のような伝統様式をグラフィックデザイン化したのとは別に、 新しいグラフィックデザインのローカライズとしての提案を、 つまりグラフィックデザイン出来たのだと考えています。 これはもう自惚れですが自画自賛させてください。 それをもう一度、 印刷という技術の元に花形装飾活字として達観できた事は、 逃げずによくやったと褒めてやってください。 さあ、元は出来ました。 次はどのようなエッセンスのものを用意するべきか、 どのような組み方を誘導すれば、 日本の庭の在り方を花形装飾活字に変換出来るのでしょうか。 次くらいからいろいろ繋がってきます。 次回へ続く。



花形装飾活字を愛でる その117



花形装飾活字の何をローカライズするのかという点については、 かなりの多くの時間を費やしてきました。 今回はその事についてです。 問題点としては、 ローカライズの時点で英字に合わなくなる事は避けなくてはなりません。 という事は、 英字と花形装飾活字の関係性のみを意識していては、 日本語書体に合わした時に、 同じように英字では使えないものになるのは目に見えています。 何を底辺としローカライズとするのか。 ついつい、 離れた場所の文化と文化を相対して見る時に、 この場合はとくにそうですが、 近いものを搾取して見る傾向にあります。 そして、ローカライズも近いものがやはり基準になりがちです。 以前に、 花形装飾活字は高い確率で、 形式から離れ華やかになり技術的にも満たされたものは、 宮廷の文化を取り入れており、 一番近いのが建物と庭の関係であると書きました。 個々の美的センスや装飾は庭そのものから影響を受け、 総体的な配置の在り方は建物からの壮観そのものであると思うのです。 これをヒントに、 まず一般的な数奇屋造りの建物を調べました。 城ではなく家屋にしたのは特に理由はありませんが、 ただ、日本において「庭」という文化で遊んでいたのは家屋であり、 必ず庭がある数奇屋造りの建物には茶室が備えられ、 その関係性の密度は城(寺院も含む)では得られないと考えました。 もしかしたら城でやってたらまた違うもんが出来てたのかもしれませんが…。 今回は庭と密接という意味で家屋でした。 そして、いろいろ調べていく内に面白い事がわかります。 西洋の庭と日本の庭とでは明らかに違うものが浮かびあがってきました。 たくさんあったのですがキーポイントになったものだけ書きます。 日本の庭と西洋の庭の圧倒的な違いは、 イメージの所在です。 西洋の庭は全体を楽しむように庭と建物が一体となり景観を作り出しています。 人が庭に入り行くイメージも中心部分は変わる事なく、 その中心部分を維持したままの、 定着し完成された美意識をイメージの所在としています。 これは先のエンスヘデのものと意図が一致します。 一方、 日本の庭は中心が存在していません。 そもそも数奇屋造りの建物というのは中心が存在せず、 それぞれの部屋の役割で配置を決めています。 多くの場合に各部屋は庭に面しており、 庭を介してそれぞれの部屋にいけるようにも配慮がなされています。 そして面白い事に茶室に関しては外界からの風景を遮断するように配されているのです。 茶室については後々書いていきますので置いといて、 では、日本の庭のイメージの所在はどこか。 とある数奇屋造りの建物の客間で面白い事がわかりました。 結論をまず書きますとイメージの所在として「人」を中心に考えたのではないかと思うのです。 客間には上座と下座があります。 その建物の客間では上座から一切の庭が見えないようになっており、 唯一、下座に座った場合に上座の後ろにある2つの障子窓から紅葉が綺麗に見えます。 あ、あと2人が共通して見れる丸窓もありました。 そして一番ヤバイと思ったのが、 つまりそれは人が居ないと完成しないという事です。 あああ、伝わってますでしょうか。わかりますでしょうかこの違い。 単に建物と庭の風景ではなく、 これって凄く面白いと思うんです。 とある商屋では女中の部屋のみ一切の庭との関わりを作ってなかったりします。 厠(トイレ)の小窓からは最高の庭が見れたり、 大体が客間は2つあって縁側廊下の手前と奥にあります。 きっと奥には大切なお客人、 手前には簡単な所用のお客人なのでしょう。 大切なお客人は縁側を歩く事で庭を楽しむ事が出来きます。 庭の中を歩いて離れの客間に行けるパターンもありました。 イメージの所在、 この違いが情報伝達の在り方や「飾る」意識に影響があるのではと考えています。 実際にこれをタイポグラフィに変換した時にどういう変化があるのでしょうか。 答えは簡単です。 タイポグラフィそのものに破綻をきたします。 何故なら、日本語書体に飾りは不要だからです。 そういう意味でも朗文堂がおこなっている文字の再考というのは正しいと思います。 多分、わかっててやってるんじゃないかなと。 日本語の書体は飾っては成り立たないのです。 ではどうすればいいのでしょうか。 日本語書体に合う花形装飾活字は可能なのでしょうか。 単に整理するだけなら罫線やベタの塗りだけで十分です。 それじゃカッコ悪いんです納得いかない。 もしそうならむしろ活字での印刷ではなく、 キチンとした書道を版として刷った方が文字としての再考は正しいと思います。 どうせ追求してたらそっち逝っちゃうんだから。 でも、そうじゃないと感じるからこそ活字にしがみ付いているんじゃないでしょうか。 う、話が変わってしまいましたが、 つまり花形装飾活字のローカライズは可能だという事です(どういう事や…)。 イメージの所在。 そこまで辿り着いた時点で実は作業が止まります。 可能性は導く事は出来たものの、 上記のように実際に形にした時に、 装飾としての性能と整理としての性能を、 実際に日本語書体(英字書体も含めて)で生かす為の「図案」で成り立たせる事が出来るのかどうか、 という点において合点がいく答えが出なかったのです。 ので一旦形を模索するデッサンをおこなう事にしました。 その中で1つの回答を得る事が出来ます。 当初、人を中心とした建物と庭の関係を、 建物からのアプローチで人が見る庭という視点の図案を描き続けていました。 が、上手くいかない。 やはり、情報の在り方としての整理性が保てず、 文字と配した時に単なる挿絵のようなものになり、 花形装飾活字ではないものが次々と出来上がりました。 そこで、 数奇屋家屋調べていた時のある茶室の存在を思い出します。 その茶室は屋敷の中にあるにも関わらず、 庭との一切の関連性を断ち、 少し歩いた小さな竹林の中にありました。 相当広いお屋敷だったので、 もしかしたら有名かもしれません。 その茶室への道のりは次の通りです。 まず、 玄関を入り、 廊下に通されます。 廊下の右手には庭があり、 つまり上記で書いたような流れがあって、 廊下を降り庭の中を歩きます。 しばらくすると小さな門があり其処で手を清める事が出来ます。 くぐると竹林が広がっており道は無く、 石畳がただ茶室までの道のりを示しているのです。 その写真が凄くカッコよかったのを覚えています。 竹林は美しいのだけど、 むしろ規則的にアシンメトリーに並べられた石畳と奥にあるであろう茶室の存在が、 ああ、これだなと思いました。 たしかに他の数奇屋家屋も、 茶室に関しては異質というか別の扱いをしているような気がしましたし、 多くは廊下や部屋からは一切入れず(隣接しているのにも関わらず)、 庭から入るという手法を取っており家としての機能ではなく、 茶室の為に庭があるのだとも感じました。 そしてそのほとんどが誘導の為に「石」で道を作っており、 それをフォローする為に植物があるようでした。 後半、文体崩れましたが、 まだまだ続く。



花形装飾活字を愛でる その116



どうしようもなくグラフィックデザインが好きなのです。心の底から。 それでいてずっと、 文字を綺麗に見せる方法を模索してきました。 その過程で出会ったのが花形装飾活字です。 この技術を自分のものにすべく研究(と言い切ります)を繰り返してきました。 最初に歴史上のものを調べる上で達観した、 エンスヘデ活字鋳造所シリーズ60の花形装飾活字。 これは恐らく花形装飾活字至上最強の技術とセンス、 そしてなによりも変えられない気配りによって作られたものでした。 次に、実験的制作を繰り返す中で出来上がった、 花形装飾活字fromIMAGEST。 これは現代の技術と歴史を通しての魅力を生かしつつ、 実用という意味で多岐なシーンに利用される事を目指しました。 そして今回、 「新・花形装飾活字『水草』」が完成しました。 ずっと考えていた事は、 英字の花形装飾活字に対して、 日本語(漢字と仮名)の花形装飾活字の思索が、 あまりにもお粗末であるという事です。 賞状に代表されるような装飾として在り様のみがクローズアップされ、 イメージの底辺としての相性は模索されていないように感じました。 恐らく、 「活版」という一括りの技術輸入だった上に、 元々の職人的美術文化の融合により、 西欧で使われた実際の技術的底辺を知ることなく、 ある意味で一遍通りな紙面の画一的美術の完成を見たのだと思います。 つまり今日まで、 日本における花形装飾活字というのは歴史的に、 ちょっと勘違いした状態で日本独自の(平仮名を開発したように)変換としての形が、 当時の描き文字文化とバッチリハマッタ状況にて、 使われ続けてきたのだと思います。 何故、英字の場合にあの装飾で違和感無く美しく使えるのでしょうか。 何故、日本語の場合にあのような画一的になるのでしょうか。 「水草」を開発する上で1つの大きなテーマになりました。 装飾の根本部分が文字との関係に強く作用している事は、 花形装飾活字に限らず全てのイメージに関係しているのは言うまでもありません。 西洋画と日本画の違いを見れば一目瞭然であり、 英字と日本語書体にも意味や形以外に、 イメージの底辺の部分で、 西洋画と日本画の違いのような根本があるようなのです。 それは言葉でくくる事の出来ない、 膨大な時間や言語変化による距離が関係している事はもちろんのこと、 文字そのものも美意識の部分として装飾的概念が強く働いています。 という事は、 花形装飾活字を扱う上で、 その利用や役割を踏まえれば、 当然のごとくそのイメージとしての装飾の相性というのは汲み取るべきものであり、 日本における花形装飾のローカライズの失敗は、 歴史的に利用されてきた経緯を含めても明白なものであると考えられるのです。 しかし、 重要な事はかならずしもそれが否定的な意味ではなく、 歴史や美意識的なところで、 今ある日本の花形装飾活字というのは間違ったものではないのだと言わなければなりません。 そして同時に過去のこれに関わった人に伝える事が出来るとすれば、 もう少し時間をかけて研究すべきであったと反省の部分として、 その研究は若干の浅はかさを感じずにはいられないという事は、 日本における花形装飾活字の衰退と、 現在にある日本語書体の欧米的なエッセンス全開(英字活字に近づけようという)を、 引き起こした引き金であったと言えると思うのです。 願わくば、 もう一度基本に戻って書体の設計をすべきだと追及します。 朗文堂がやってたりするが、 それでもメインストリームにあらず。 クウネルのようなすっきり書体が選ばれる原因は、 グラフィックデザイン、タイポグラフィの在り方が、 まだまだ西洋的であり、 その点においてもローカライズが不十分であると言えます。 何を根本とするか。 「水草」は花形装飾活字として設計しました。 まず、図案を見てなんだこりゃ?だろうから、それだけはちゃんと書いておきます。 花形装飾活字において、 もしくは日本語書体における英字よりも使いにくいよね現象というのは、 ある種の喪失のようなものであると考えています。 決して日本語書体は英字書体に劣ったものではないと言い切ります。 活字にした時に技術の部分やエッセンスが、 英字に近づいてしまってはいますが、 それでも英字に負けないぐらいのポテンシャルは秘めていると思います。 単にグラフィックデザインやタイポグラフィといった視点で見たときに、 葛西薫のポスター類が印象的ですが、 空間の使い方や写真のイメージの量としてのバランスを意識せずには、 作業が難しい、 もしくはバランスとして抜いたイメージが場を支配しないと日本語が入らないのです。 つまり、 日本語(あるいは漢字)はイメージそのものであると言えるのです。 中国で使われているような漢語との圧倒的な違いというのは、 平仮名の存在です。 漢字と平仮名の関係は、 まるで英字と花形装飾活字との関係に似ています。 わかりますでしょうか。 日本は印刷技術やグラフィックデザインの発想が輸入されるまで、 文字そのものが情報と装飾を兼ね備えたものとして扱われてきました。 いわゆる描き文字です。 例え交わっていたとしても、 あくまで分裂されたものであり、 現在の日本における花形装飾活字の扱いに似ているような気さえします。 これについては書き始めると当分続いてしまうので割愛しておきますが、 掻い摘んで書きますと、 グラフィックデザインというのは、 扱う側がどういった文化の底辺を持っているかで大きく変化するものであるという事です。 という事は花形装飾活字も同じ事が言えるのではないでしょうか。 歴史的背景や装飾のみの技術を掬い取って完成という訳にはいかないように思います。 もう一度、 花形装飾活字というものを、 文字を日本語書体をカッコよく見せる手段を考えるべきではないでしょうか。 当分続きます。



花形装飾活字を愛でる その115

文章を寄稿していただきました。 本当にこの方にこのデータを使って貰いたいと思いました。 そして何かの役に立つ事を願わずにはいられない、 なかなか想いの詰まった文章になってます。 今回のこの文章を読んで単純に嬉しくなりました。 同じ部分に可能性を感じていて、 それがまったく違う視点からのものだったんです。 今まさに花形装飾活字的な考え方が、 今の印刷、タイポグラフィもしくはグラフィックデザインには、 必要になっていて、 どこか繋がっていなかった疎外されていたものが、 一気に引き寄せられている時にあるのだなあと感じました。 是非、読んでみてください。 これからどうなっていくんだろう楽しみです。

http://printersflowers.fengfeeldesign.org/?cid=34120



花形装飾活字を愛でる その114

配置については悩ましいところのような気がします。 これって花形装飾活字に限らず、 とくにグラフィックデザインの分野の方は同じ印象を持っているんじゃないでしょうか。 結局デザインとなると誰かと一緒に作業することが前提になる訳で、 その中で個性なんて話になったらややこしくて仕方ない。 大体からしてデザインというスタイルで個性とか言ってる時点で無しなのかも。 と言いつつやっぱり個性というか、 せっかく作業するんですから、 自分の意図というか反映というか趣向が其処にある事もまた、 それが腕の見せ所なんだろうけど、 元がさ、元だから変わらないよね。 そうなんですよ変わらない。 どんなに個性とか言っても元が変わらないと変わらない。 じゃ、オレたちゃなんなのよって思う訳ですよ。 最近の会話の中で、 スッゴイ技術持ってる人がいて、 めっちゃ追求してるんだけどどうも成果として上がってこない。 これって一体なんなのでしょうね。 まるで花形装飾活字みたいなもんだよね。 主流となってスゲーって言われてる技術よりも凄い事してんのに、 それに誰も気付かない。 というかその価値を分かるだけの知識が無い方が多いのが残念です。 時としてどっちのせいかなんて、 わかりゃあしないけれど、 確実に言える事は両方とも下がっていて、 高いところにいる人が何故か損してる。 その現状があるのだけは言えるし、 結局メシ食っていく為に、 低いところに合わせなきゃやっていけない現実もまた、 何回もよく似た事書いていますが、 多分この花形装飾活字も似たような境遇だと思う。 技術の置き去り。 既に生まれた時点では、 何もわかっちゃいないやつらが勝手にスタンダート作って、 私物化して肥しにしちゃってますが、 それがあまりにも醜くひどい有様で範囲も相当なもので、 明らかに洗脳されまくってますが、 その箍はそろそろ切れてもいい頃だと思います。 今の30代、40代以降は完全に終わってて、 あ、全部じゃないですよ、 それと非難じゃないです。 単に全体的にそう見えるという事だけど、 ボクの世代もギリギリそういうやつらの塊で、 逆に今の20代前半辺りが凄くいい感じなんだけど、 まだダメだと思う。 まだまだ圧倒的に合わせないといけない現状にある。 スゲーやつが本当にスゲー事になんないと、 この花形装飾活字みたいな惨劇になりかねないもの。 1人でも数多くの方がこの視点に気付く事を願っています。 途中で話が変わってしまいましたが、 書こうとしていた事は似たりよったりなんで許しておいてください。 スゲーやつにとって低いところに合わす苦痛は相当なものです。 それだけは本当に分かってほしい。 その上で自分が技術者かどうかを判断した方が正解とは言わないけれど、 間違っちゃいないと思う。 グラフィックデザイナーなんて自分で名乗っている人達は、 それを本当に良く分かったほうがいいぜ。 花形装飾活字の1つも扱えないのならね。 そういうものだと言い切るバカも含めてね。



花形装飾活字を愛でる その113


という事で、 一巡してエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字を。 やっぱこいつスゲーなあって思った。 君いいよホントにもう溜息まじっちゃうよマジで。 久し振りに使ったら思わずずっと使いそうになって、 この文章書く時間を無くすとこでした。 はっきりいってこれってまだまだ理解しうるには、 使い続けて観察するしかないんだけど、 なんだか、 IMAGESTのやつにしかり、 今、別で設計してるやつにしかり、 そういうのが合わさって自分の中でかなり、 いつの間にか花形装飾活字への理解が深まっていたらしいです。 その中でエンスヘデのやつを使ったら、 思いの他新しい感じで使えたので、 その報告も併せまして、 いろいろ絡ませながら、 次からそういう展開になります。 にしても面白いよねこれ。 この造形美ってやっぱり女性的なところにあって、 なんというか髪の毛とか、 化粧に近いように思いました。 曲線の在り方とかは、 女性の輪郭や柔らかさの官能的な部分に似ていて、 逆に直線的な部分を構築する事で、 その不安定なドキドキをカバーしてる訳なのですね。 だから新たなに気付いた部分としては、 表裏一体、ある意味でフタナリ…は例えが悪いので置いといて、 1つの版でもその完成に安定感が備わってる訳です。 逆を言えば不安定要素をワザと作って、 複数を使わせるやつも花形装飾活字には存在している訳ですが、 それにはかなりの数の版が必要になる訳ですから、 活版印刷という視点で考えれば、 あんまし実用的ではないように思います。 という事は、 これは調べてみると面白いんですが、 初期のアラベスクに近い花形装飾活字は、 ワザとではない不安定要素ばりばりの版で、 複数のものを組む事が前提にしているのに関わらず、 時代が過ぎていくにつれて、 その完成度があがり、 版そのものへの追求へと至った結果、 このエンスヘデのやつになったんやと思いまする。 これより時代が過ぎるとなかなか低迷で、 実験的な革新的なものになっていくのですが、 あんましよろしくない、 どっちかというと使えない。 もうパターンデザインでいいじゃん的な勢いになってきます。 コンピュータが導入されて一気にそれは加速されたようにも思います。 日本のやつにしろ低迷期のやつを輸入したにすぎないからなあ。 こればっかしは好みなのでなんとも言えないんですが、 やっぱりエンスヘデのやつが素晴らしすぎるでしょうよと、 これ以上のもんがあるんなら拝んでみたいよマジで、 完成形なので、 ある意味これ以上のもんは作れないに等しいですが、 考え方を変えると違う方向でいいものは作れると思うんですよね。 その結果がの1つがイメジストのやつやった訳で、 まあ、でもあれはテイストは花形装飾活字というところに置きながらなので、 ちょっと小細工をした程度なんで、 そのような出来なんですが、 だって、そんな小細工だけでもいろいろ試せるという事は、 絶対に現在の実用でも可能な気がするんですよね。 ただ重要なのはその懐具合をどこにするかというのも、 考えなあかんのですが、 そういうのを繰り返すことで、 新しい花形装飾活字の可能性というのもまた発生するものだとも感じています。



花形装飾活字を愛でる その112


連結部分について。 イメジスト(http://www.miwakazuki.jp/imagest/)の花形装飾活字では、 連結部は極々少ない数で構成出来るようになっています。 というより基本が連結による花形装飾活字なので、 連結部分もクソもないような感じですが、 あえて言うなら、 種類は多くない方がより自然に見えるようになっています。 これはエンスヘデのやつを使っていて気付いた事なんですが、 どうしても、版を構築する際、 その完成度の高さゆえに、 どの版を使えば良いのか迷って、 結局、たくさん選んで変になる、 もしくはチョイスのミスでバランスが取れない等、 一応のパターンは設定されていましたが、 度々そのような状況に見舞われました。 まあ単純にもっと、 その花形装飾活字の理解を深めれば良かったし、 だからこそ魅力を感じているのですが、 感覚的な部分としては、 不便のようなものを感じていました。 もっと直感で組むという楽しみは味わえないのかとか、 もっともっと理屈じゃなくて直感で組めたら面白いと思いました。 単純だけど個性が出て直感で組む事が出来るようなもの。 中でも連結部、 というか隣に並べた時の版の選定の自由度の底上げは、 良い結果が出たと思います。 要するに適当に選べばそれなりに形になるといったノリです。 けれどそれは使う人の技能に委ねられるといった寸法。 版のイメージが先行するのではなくって、 あくまで組む側の意図が優先される程度のイメージ。 それを連結の単純化という側面で実現したと言い切っておきます。 版同士の相性という視点でも役割の在り方を明確化しない事でも、 試している部分があります。 単に役割を緩めたとか無くしたではなくって、 あくまで明確化しない事にこだわっています。 無くしてもいないし緩めてもいません。 じゃあなんなのってとこですが、 それは最初書いた、 極々少ない数で構成出来るようにした訳です。 複雑怪奇で綿密に組まれた版構成は、 時には神がかった素晴らしい美を産みますが、 あくまで役割やポジションを明確にする事で可能にしているんです。 逆に要素が多すぎる傾向に傾いてしまうような気がします。 それを否定する事はありませんが、 今回の意図としては、 いかにその部分をスマートにまとめ上げるかという点に関して、 明確化しない曖昧な部分で、 使用者がある程度定義しなおせるようなものという事になるかと思います。



花形装飾活字を愛でる その111


そして、 オブジェクトという概念。 モチーフがシルバーアクセサリーであったという事も、 このイメジスト(http://www.miwakazuki.jp/imagest/)の花形装飾活字に特徴を与えました。 前回書いた特徴を備えつつ、 オブジェクトとして線ではなく形としての存在です。 ここでも悩まされました。 形を作る事で具体的なイメージが発生し、 花形装飾活字としての役目とはどこか遠くへ行ってしまうような気がします。 そうじゃない形とは何なのかが、 今回得る事が出来た大きな技術の1つだと言えます。 飾るべく情報を邪魔しない形、 なおかつ花形装飾活字としての美しさを兼ね備えた形。 どうしろっちゅうねん!と、 とりあえずツッコミながらやりました。 今回のシルバーアクセサリーの形が抽象的な表現だったのも救いでした。 具象と抽象とはまったく別のように感覚としてはありますが、 今までのドローイングの作業の中で、 その関連性に気付いていたのも救われました。 抽象表現とは、 なんだかんだいって知覚によって形作られます。 どんなに天から降ってきたなんて事を言っていても、 知覚や経験、五感に至る全ての感覚の記憶によって表されるのは明確です。 具象表現もまったくなんら抽象表現と変わりありません。 知覚や経験、五感に至る全ての感覚の記憶によってそれは表現されます。 花形装飾活字がグラフィックデザインそのものだと書いている理由もここにあります。 つまり、それら中間を搾取することこそが、 花形装飾活字としての装飾論であり、 廻りの状況、 今回はイメジストのシルバーアクセサリーのブランドを構築する1つの要素でした。 そういう廻りの状況を見極めるのも、 抽象表現と具象表現の搾取の判断材料であると言えます。 ん、ちょっとわからない文章になりましたが、 「花形装飾活字」的なものを構築するという意識では、 決して優秀な花形装飾活字とは言えません、 要素や背景を考慮に入れつつなのは前回までに書いてきましたが、 今回の場合も同じで、 イメジストのシルバーアクセサリーが背景だからこそ生まれた形であり、 それがオブジェクトにならなくては意味がないのと同時に、 実際の在り方として、 あくまで中心となる情報、シルバーアクセサリーを伝える一つの要素として、 イメージを構築するものでもあるという事です。 過去の花形装飾活字のイメージが、 知らずにその時代背景や要素を表してるのと同じで、 それを組む事でイメジストのシルバーアクセサリーが自然に連想され、 なおかつメインに置くべき情報よりも、 イメージが強くならない形を搾取しなければならんちゅう事です。 イメージが先行するようなら花形装飾活字なんて形態を取るのではなく、 装飾とした方が優秀です。 過去に花形装飾活字が衰退したのもイメージが先行したせいなのは、 別の話になるのは置いといて、 次回へ続く。









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