花形装飾活字を愛でる その170



結局、今までここでやってきた花形装飾活字の設計というのは、「自由」を得る事でした。imagestに始まり、水草fujiにいたるまで、エンスヘデで感じた理不尽な縛りから開放を目指しきたように思います。imagestでテクノロジーと「組む」という純粋な喜びを追求したのち、水草で一旦、最高潮までに達した自由を、fujiで心地よい縛りを与える事で、花形装飾活字とは何か、その本質を見極める事が出来ればという思いの中で制作しました。素晴らしいエンスヘデの花形装飾活字にも実は心地の悪い縛りみたいなものがあって、その反面、それが美しさを与えていたり、圧倒的な荘厳さを見せ付けていた訳ですが、それはまるで箱入り娘のような、圧倒的な気品の中で構築されたものでした。なんとも体裁のよい整えられた、なんというか育ちがいい花形装飾活字で、そこが多分、圧倒的な設計の妙とともに凄さを醸し出している要素の一つであるというのは同時に気付けていたのだと思います。だからこれはスゲー!と感じたし、他を圧倒していたんですね。いわゆる名門!という感じでした。imagestで目指したのは、エンスヘデでという圧倒的な存在の何を残して何を捨てるかの軸を定める事です。そもそもみわくんのオリジナルブランドのアクセサリーのイメージ構築の一環として設計したのが、きっかけだったんですが、何を残して、何を捨てたかという点において、捨てたのはルールで、そして残したのは美しさと荘厳さでした。装飾としてのルールも含めて全てを捨てて機能を自由にし、その曲線を配置する事で、いかにその美しさを得る事が出来るか、という一点に的を絞り設計したのが、このimagestでした。結果としては、成功というよりは、何を成功とするかという事に関して書けば、結果、圧倒的な自由を得れたという事になるかと思います。つまり、この文章で書いている自由と束縛の表現はimagestを設計する上で得れた実験結果であると言えます。そうなんです。エンスヘデのやつは実は自由では無かったんですね。自由どころか、ルールだらけのなんとも扱いにくいやつだったんです。が、ですよ、ここが重要なんですけど、それこそが花形装飾活字という素晴らしき装飾の自由だったんですね。実はimagestと水草の間には、いくつかの試作品が存在してまして、急に水草に逝ったという事ではなく、段階を踏んで水草でした。では、水草はなんだったのか…については散々とこの愛でるで書いてきましたが、この視点に限ると、圧倒的な自由をいかに得るかという事と、その反面の美しさをどう得るかという事の頂点の回答が、水草だったと言えます。だからエンスヘデと水草は対称的でもあり、同等なんですね。同じレベルに並べるのは、少し傲慢なのかもですが、僕個人の意見としては、そこまで言ってしまっても良いところまで引き上げたと自負させていただきます。そして「fuji」。エンスヘデと水草という距離の間に生まれた異種。自由とルールという相反する機能を持ち合わせた花形装飾活字。水草をエンスヘデに寄せたとも表現していますし。エンスヘデが水草に影響がもしあったらという想定での設計でもありました。



花形装飾活字を愛でる その169



基本所作ですね。情報の分断、もしくは連なる直線状の枠です。もし、エンスヘデの比較するなら、この「fuji」にはエンスヘデのもののような平均的な能力を与えるのではなく、個々に枠としての役割を与えています。そして何がこれが日本的という点においては、「面」ではなく「線」になっています。枠をオブジェクトの肉全体で構成するのではなく、むしろ「fuji」が線で構成されるオブジェクトである為(何故ならサンプリングが日本からのローカライズだから)に、オブジェクトの役割そのものが同時に、枠を構成する役割になるという感じです。エンスヘデのものが装飾に釘を挿しオブジェクトに内在させる形で線を構築していましたが、この「fuji」は装飾の部分そのものが役割であり「枠」なんです。だから、凄く日本的というか、凄く日本人の私達には直感的で使いやすい仕様なんじゃないかなと。いろいろ試してみると面白いかと思います。直線的にも出来ますし、緩くカーブを描く事も、曲げる際にもその緩急にも気を配ることが出来ます。今回はそんなに使っていませんが、装飾色の強いものを使う事で彩りが調節出来て、紙面にメリハリをつける事も可能です。



花形装飾活字を愛でる その168



基本的な組み方についてです。この花形装飾活字「fuji」には簡単に組む為の3つの仕掛けを用意しています。1つは「重力」、もう1つは「連綿」、この2つについては先だってお伝えしました。もう1つ、この「fuji」を使用する上で重要な仕掛けがあります。それは「引っ掛ける」です。これら3つの要素をも組み合わせて使用する事で「fuji」の魅力を最大限に引き出す事が出来ます。何よりも簡単であるという事、誰にでも使える単純さに加えて、それが美しさに繋がるアプローチである事が、この3つを用意した理由でもあります。前の2つ「重力」と「連綿」という考えは従来の花形装飾活字に有り得る要素でした。最後の「引っ掛ける」がテクノロジーの壁を越えた新しい可能性になります。「fuji」の版をよく観察すると、ハンガーのフックのような引っ掛ける箇所を持った版があるのに気付くのではないでしょうか。それが引っ掛ける要素の基本形です。また、形全体が引っ掛ける事の出来る円形に仕立てられている版もあります。それらは、繋げる、もしくは方向転換の要であり、繋がる連綿、重力の方向の誘導弁になっています。かならずしも、「引っ掛ける」必要はありませんが、組んだ時の一体感は圧倒的に強まりますので、積極的な使用をオススメします。ただし、極度な使用は単に生い茂っている雰囲気しか「絵」としては与えないので、情報とのバランス、紙面のサイズ等を見極めながら使用が正しいように思います。1つ、注意点として、重力としての要素が強い版でもあるので、とくに引っ掛けた場合に方向の転換が著しく、少しコツのようなものが必要なので、ある程度、どんな感じになるか何度か、いろんなパターンを試してみた方がいいです。ただ、簡単なので、適当にやってもいけるので、いろいろ遊んでみてください。いやほんとカッコイイ!こんなに簡単に、こんなにカッコイイ、グラフィックが手に入るっていう。お買い上げお待ちしてますw



花形装飾活字を愛でる その167



クオリティについてです。とりあえずドドーンと拡大画像。なんでこれがエンスヘデに寄ったという表現をしているのかの1つの答えです。もちろん表現としてのコンセプトとしてのデザインは重要ですが、そうではない、もっと物質に添った考えをするなら、今回の「fuji」は水草よりもエンスヘデにしたと言えます。まず、彫るという作業をアウトライン上で行なった事と、曲線の在り方として、ググッとエンスヘデのものに近い仕様になってます。彫りのぐら付きやガタツキを「再現」ではなく、本当にそうなったという程度の感覚としての彫りを目指しました。水草との比較としては、それが1つで成り立つように版そのものを曲線として完結させています。意識したのは真円で、設計の段階で四角の版ではなく真円を描き、それを版として設計をしました。なんというか、活版としての機能面は置き去りにしつつ、やはり技術という側面においては現代にコマを進めるべきだし、活版という制限から生まれた産物であるにしろ、それは制限する人の意志に委ねられるまでの自由を得た今としては、そこにこだわる理由は無いと判断したからです。要するに暴力的に書けば、活版なんて時代遅れの技術にこだわるつもりもないし、だからといって、過去の技術を捨て去る勇気も無いという具合です。何を拾って、何を捨てるか、そして何が新しい要素かをキチンと、どれだけ見極めて意識して設計するかで、この花形装飾活字は深度を変化させる訳ですが、「fuji」に関していえば、結構、大胆に切り捨てを行なったと言えますし、何が必要かという意味では、かなりピンポイントで選び取れたように思います。結局のところ装飾でしかないし、元を正せばホントそれだけの事なんだけど、ただ1つ言えるのは、これはクリエイティブではないという事でしょうか。どちらかというと、やはり印刷の一連の作業に似ていると感じます。図案があって文字があって、それに付随する技術で、紙を選びインクを選び、目的に合わせて刷っていく。この花形装飾活字というのは、その印刷という技術の一旦であり、目的を意識しないで技術や研究といった概念のみで構築した際に、「fuji」という存在は、その一方の到達点であるような気がします。つまり、これはクオリティとしての分岐点でもあって、このまま、歴史や技術を継承したものを追及していく事も出来るし、現代のシーンに合わせた利用の実験的制作も可能なんですね。「fuji」の版そのものとしての完成は追及と利用の丁度中間地点にあるように思います。と、版そのもののクオリティについて言及しようとしていたんだけど、遠回りになりつつも、どんなもんでしょう。「fuji」そのもののクオリティの在り方と位置については伝わりましたでしょうか。そりゃもう品質という意味では、まったくからして自信を持って贈らせていただいております。そんなの書いてもしゃあないですしね。版、1つずつの目的、完成度は非常に素晴らしいと自負しています。見た目も美しさも。どっちかというと今回は可愛い感じにも仕上げているんですが、エンスヘデのやつよりかは、重くない感じを目指しましたし、かといって、水草よりかは装飾色の強い設計になっています。ルールも単純だし、見た目こそシンプルですが、まず実際に組んださいの使用のバリエーションに驚かれると思います。とりあえず花形装飾活字というものの要素は、ボクが今まで研究してきた発見や気付きも加えつつ、良い部分の全てを託した、新しい試みではない、継承という意味での、まったく新しい花形装飾活字です。まあ、まずは見てみろよな。是非使ってみてください。



花形装飾活字を愛でる その166



重力の方向について。この花形装飾活字『fuji』には重力の方向が定められています。重力の方向を一定にする事で自然なアプローチでセッティングする事が可能です。1つの連なる要素を見つける事が出来れば、後は繋がる方向に配置するだけです。この装飾には「葉」と「花」の2つがあり、それらをバランスよく繋げたり離したりする事でアクセントが付き、より心地の良い配置になります。もし「自然」に配する事を希望するなら、例の画像のように少し斜めを意識すれば「自然」な感じ、いわゆる日本の友禅の雛形に見られるような配置に近くなります。この「fuji」には水草と同じ「外」と「内」のルールがあり、今回の「fuji」の肝でもあるんですが、「外」と「内」を一定の制限で誰もが気軽に使えるように仕組んでいます。それがつまり重力の方向を意識するという事になります。コツは「違和感」が無いように繋げるだけ、それだけです。後は対象に合わせて変化を与えるだけ。簡単です。そもそも、この繫がりの発想の着眼点は平仮名の「連綿」から来ています。なので一度、縦に真っ直ぐ繫がりに気を配りつつ並べてみると確認出来るかと思いますが、まさしく平仮名のあの連綿そのもの(遠いけれど…)です。それが「水草」であり、「fuji」への継承でもありました。結局、日本の装飾や画というのは平仮名的なんですよね。極論なのかもですが、なんというか、動いている「動」の存在を記憶媒体のように移行させるのが日本的な美であるんじゃないかというのが、ボクの考えで、つまり不変的なものを絵として描くのではなく、まるでそれが動画のような動きそのものであるんじゃないかな。というよりも「fuji」そのものが、もしも、西洋人がこの発想に気付いていたらという元で生まれたというのもあるし、組むという発想そのものを日本的な要素を強める事で変化させ、いわゆるエンスヘデのもののような「流れ」や「空間」そのものを圧縮させて不変化させつつ配置する完結型の配置方法ではなく、「重力」という紙面では絶対に完結が起こりえない発想での配置。そして対象の文字が醸し出す情緒の内包。もっと言うと、西洋の花形装飾活字が、文字の情報そのものを限定付けて整理するいわゆる「箱型」であるとしたら、今回の場合というのは「受け止め型」という事になる訳です。「魅せる」「飾る」の整理ではなく、紙面に現れない文章の美しさ、「萌え」や、それこそ「情緒」のようなものの整理を目的とした装飾。それが花形装飾活字「fuji」であり、重力で組むという発想でもあります。



花形装飾活字を愛でる その165


それともう1つ。fujiでやってみたかった事。それは工夫をせず、直球ストレートなものを作るというもの。花形装飾活字としてでもそうだし、今まで自分がやってきた総集編なつもりで、進化させる部分は進化させて、丁度良い具合の量産型を構築する事が今回の目的でもありました。「使いやすい」「わかりやすい」を念頭に置きながら設計をし、各パーツの役割分担という事にはせずに、どのように使っても、それぞれの味が出るようにデッサンを繰り返しました。また、それが簡単なものにするのと同時に無意識のうちに繋がっていく感覚をいかに味わってもらうかという点についても随分考えました。誰もがカッコヨク組める花形装飾活字。そして使う人が変われば組み方も変わるというエッセンス。この2つの同居が、全ての最優先事項でもあったし、これらをクリアする事で、自然と質の良い花形装飾活字が生まれるのではという確信みたいなものがあったように思います。それが完成という一方通行ではなく、用途があって使用するという前提は、やはりグラフィックデザインという考え方に近かったし、また1つ、今回の設計で大きく成長出来たような気がします。繰り返して書いて申し訳ないんだけど、それそのものが完成ではなくって完成域に達していながらも、それが使われるという前提を作るというクリエイティブ、その到達点。花形装飾活字のコツ掴めたような気もしてます。



花形装飾活字を愛でる その164

とうとう7000文字をクリアするツワモノが現れましたよ。なんとも「私のグラフィックデザイン」という意図に沿った素晴らしい文章です。ボクはグラフィックデザインに関わって、かれこれ14年になるのだけど、根本的には変わっていない事があって、それは考えを定着させない事なんだよね。つまり視覚的なものを支配するグラフィックデザインにおいては絶対的に重要な要素であって、対面する環境によって、まったく違うグラフィックデザインが発生するものなんだよね。今回のこの文章も、その1つの視点から生まれたグラフィックデザインという事になるし、何かを気付かせてくれる一手という意味では充分すぎる内容な気がしました。グラフィックデザインは常に動いている。確固たる技術や伝統様式等は存在しない。それは「何か」という視点を第三者が書く事によって、それを読んだ人間によって、まったく違う何かが発生する。ボクにとってそれがグラフィックデザインだったのですね。そして今回の文章を寄稿していただいた著者もグラフィックデザインだった。それがなんか心地よく読める感じです。グラフィックデザインを前提にしているという事は、それを視点として気付けた人間にとって、どれだけ心地良いものか!是非とも、この栄養を味わっていってください。グラフィックデザインをニヤニヤして読めますwではどぞー。

http://printersflowers.fengfeeldesign.org/?eid=807233



花形装飾活字を愛でる その163



やっと完成しました。花形装飾活字「fuji」。ボクにとっては水草の存在が今のところ最上にあるんだけど、この「fuji」の位置づけは、その廉価版と呼んでいいかもしんないです。でもだからと言って、手を抜いたとかでは決してなく、分かりやすくしたというのが正しい言い分のように感じます。あの水草は、あくまで花形装飾活字そのものを日本という視点でローカライズした結果、ああなったというもので、今回の「fuji」とは立ち位置も。その視点もまったくの違うものであると考えています。では、「fuji」はなんなのか。経緯を説明すると、水草の過程で生まれた異種にあたります。花形装飾活字というものを、日本というものにローカライズする際に、互いに近い要素のものを組み合わせる実験を幾度となく繰り返した結果、生まれたのがこの「fuji」なんです。つまり、視点として西洋的な花形装飾活字の古典的な形の側から、日本という古典を、いかにスムーズに取り込むかという事を念頭に置く事で、これが成立しました。日本のいわゆる友禅の雛形を、西洋的に見た時のレスポンスを、花形装飾活字的に作った訳です。そして、分かった事は、この方式と技術を使えば誰でも花形装飾活字は増産が可能だという事です(時間はかかるけどw)。どうしても装飾としての部分に目がいってしまいがちですが、やはりこれは合理的に準備されたシステムであり、装飾というルールを形式化した優秀な観察としての結果だと言えると思います。その上で「fuji」は、そのルールを実践し実行した初めてのケースの花形装飾活字だと言えます。見た目そのものは、友禅の雛形の「藤の花」近いものにしているんですが、やはりそのシステムが西洋的なものである為に、これはやはり従来の花形装飾活字なのだと思います。1つはっきりした事は花形装飾活字は文化や歴史の中で伝統的なものとして受け取られがちですが、それらはあくまで使用の限界での話しで、システムそのものに言及するなら、グラフィックデザインという分野において確実に使用されるべく対象であってしかるべきだという事です。そしてもう1つ。文字単体でその整理には限界があるし、読みやすさや判読性を文字そのものを対象としたアレンジに寄りすぎるのは、いささか急いだ判断のような気がします。やはり、ずっと書いてきてますが、ここは花形装飾活字を装飾として扱うのではなく、あくまで文字を整理する、「文字」そのものとして扱うのが妥当だと思います。ただ、花形装飾活字をそれ単体で使うというのもまた同じであると注釈を入れておかなくてはなりませんが…。読みやすさとは何か、綺麗な装飾とは何かを、もう一度よく考えてみてもいいと思います。この機会に是非。



花型装飾活字を愛でる その162

じゃあ。一周して水草とはなんだったのか、 もとい花形装飾活字とは何か。 うんでもって、 グラフィックデザインと認識している奥底にあるものとは何か。 というよりも、 現在のグラフィックデザインは、 僕たち日本人が歩み寄った結果だったし、 それはグラフィックデザインの分野に関わらず、 全てのカルチャーに言及出来る現象だったんじゃないかな。 そして、 今になって慌しく危機に感じ始めているような状態。 もう遅いけどね。 実際、 花形装飾活字の配布の中で、 この2つのパターンに分かれる訳です。 歩み寄った感に疑問に感じてる人と、 やっぱりそこに価値を感じてる人。 そのどっちが良いとか悪いという話ではないけれど、 圧倒的に多いのは後者で、 個としての強さを感じるのは前者って感じです。 やっぱりこれは広さの問題だと思う。 グローバリズムに陥るには、 日本と言う文化圏と、 国土そのものの広さの圧倒的差みたいなのが、 今、まさに生じてて、 ちょうどいい談合感みたいなのが、 確実に失われつつある上に、 希釈率が上がる事で、 単純にそれが否定の対象になっている。 そこへきて、 花形装飾活字のローカライズの失敗。 失敗と言うよりは、 その距離を日本的に捉えた結果だったのかもしれないけれど、 もう少し、 花形装飾活字そのもののエッセンスと、 自分達が作った活字をよく理解すべきだったように思います。 そこに気付かないまま、 歩み寄ってしまったもんだから、 現在のような表面を掬い取るような、 西洋的、 最先端の押し売りが正しいように見えてしまう。 わかりますかね。 何かが違うと思いませんか?? つまり、 違いというのが「水草」な訳です。 その真相に、 僕達が歩み寄ってしまった結果と相違があるという事です。 あまりにも見誤っていると思いませんか? 重要な事は、 文化が幾つもあるという認識を持っているという事実があって、 それが花形装飾活字を本来の位置からずらして見てしまっている現実が、 分野は問わずに取り巻いているという状況にこそある訳です。 その上で一度、 視点を狭める必要があると感じました。 花形装飾活字と印刷のみの関係を重視する事で、 日本における印刷との関わりを、 もう一度考えて、 単に印刷という状況を作り出すのではなくって、 その事象そのものを、 花形装飾活字とした方がいい。 それが「水草」です。 まだ続きます。



花形装飾活字を愛でる その161

つまり、共有の広さそのものが、 イメージを希釈するような状況を作り出したと考えられるのです。 10人で使っていたものを、 10000人が使うようになる時の気薄さのような現象は、 文字や図案に言える共通項ではないでしょうか。 わかりますでしょうか。 花形装飾活字と文字とのイメージの心地の良い関係とは、 それぞれの希釈率、 すなわち濃度にこそあったのではないでしょうか。 そこには目的や事情、状況、意識的なもの無意識的なものが、 いろいろあるんだろうけど、 全ての現象を組み合わせた広まりが「イメージ」に変換され、 文字や花形装飾活字に変化したと言っていいと思います。 という事は、 写真や印刷技術の発展による、 花形装飾活字の衰退と文字の変化は、 少し事情が違うような気がしてて、 この違いというのは、 最近の表層だけ掬い取るような、 「最先端の押し売り」現象に繋がってくるんじゃないかなとも。 花形装飾活字のデータが書籍等で売られるようになったけど、 それを買う人って結局は装飾的な何かのエッセンスだけが欲しくて、 買う場合が多いような気がするんですね。 もちろん、 ボクが配布してるやつもその目的で欲しいと感じての方もいらっしゃるだろうし、 否定はしないんだけど、 忘れてはいけないのは、 その美しさというのは文化圏があってこその美しさでもあるし、 こと「花形装飾活字」に話を狭めるなら、 活版という在り方に潜む美意識を追求した結果の、 1つの完成形でしかない事を知っておかなきゃなんない訳ですよ。 花形装飾活字の身の丈というか、 それを伝える為にこの文章を書いてる訳だしね。 何回も書いてるけど、 これは花形装飾活字だから美しいのであって、 もし純粋的に美しさを追い求めるなら、 こんな劣化的な美しさじゃなくって、 装飾そのものを追求した方がいいんですよ。 その側面とともに、 少し事情の違う一線があったであろう、 イメージの変化は、 やはり写真と印刷技術の向上にあったのだと繰り返し書かせてください。 まず、 写真の登場は人が抱くイメージの在り方を相当変えたし、 印刷技術の向上は、 活版の価値をどん底まで突き落とした。 その中で花形装飾活字の活路は無かったし、 文字はその利用に変化せざるえなかった。 で、 ここでイメージです。 じゃ、今何が残されているのかという疑問が生じる訳です。 だって、おかしい。 僕たちは文字を文字と認識し、 図案を図案として認識している。 何が言いたいかというと、 根本はもっとイメージだったんじゃないかって事。 例えば仮名なんかは、 表音って事になってるけど、 これは漢字に対して日本の音を当てたっていう理屈なだけで、 その実はもっとダイレクトに見た目以上に、 前回も書いたけど音が鳴っていたんじゃないかな。 読むというより聞くという発想。 だとすればですよ。 日本の美とは、 音から全てを連想しイメージとして内包してたんじゃないかって事。 見えないものとか情景に美だとか理屈が成り立つような気がしてます。 つまりそれが「文字」だった。 と考えてはどうでしょうか。 でででで、 そこから「水草」を見返してみるとの話は、 時間がきたのでまた今度。









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