花形装飾活字を愛でる その180

ええと、エンスヘデの分に関して配布をとりあえずストップ中です。今回はその事について。まあ、このままでも良かったんだけど、タイミング的にも花形装飾活字を使っての社会実験の次のステップに進みつつあるというのもあって、内蔵していくものと、そうでないものの2つに要素を割って考えようと思いました。いえね、最近、営業職という人種を観察出来る絶好のチャンスを得て、その流れというか成り行きの中での、つまり社会という花形装飾活字の居場所を探せる要を得たような形です。その中で営業職の圧倒的な能力を感じつつも、欠点も見出しつつも、とりあえずは重要なキーワードもあるっちゃあるので、それらを見極めつつ、行動を移していけたらなと思いました。方向転換、というよりかは、これから花形装飾活字は増殖させていく予定なので、そっちの方で、配布の活動を再開させる目処を付けれたらという感じです。しばしお待ちを。エンスヘデくんには別のところで役に立ってもらう事にします。変わらずFUJIに関しては文章のシェアを続ける予定ですので、どうぞよろしくお願いします。花形装飾活字が実は実際のグラフィックデザインの作業で非常に使えるツールであるという事がわかりました。その上で、グラフィックデザインを生産するという視点の元で、次の活動にご期待ください。もちろん前回までにお伝えしておいた、計画を含めまして、近々、詳細の発表と公開を出来たらと考えております。ただ、何を価値とするかという点において、少し軸を変えて考えるだけなので、面白さの部分では相も変わらずな気がします。どうぞよろしく。また、今後、フリーでダウンロード出来るコンテンツの設置も予定しております。この活動はまだまだ終わりませんよ!wお楽しみに。



花形装飾活字を愛でる その179

花形装飾活字って単なる素材なのかな。なのだとすれば、ちょっと残念かな。結局なんというかカルチャーやファッションに言及しちゃってもいいと思うんだよね。僕らに元々備わっているものなんてない、というのが日本人の根本でもあるから、ああ、こういう民族性で、なんかこう流行とか廃りとかも含めて、鎌倉時代以降となんら変わってねーという。最近知ったんだけど、仏像にしろ、寺の荘厳さにしろ、結局は人の目を惹きつけたいが為の手段にしか使えてないっていう、元々の日本人の文化に対するポップな目線というのは、今もずっと変わってないよなという感じ。民族的な意識に辿り着いたのだって、100年も昔って訳じゃないし、それこそ明治以降のアイデンティティだったりする訳じゃん。だって、スゲー話だべ、それまで何百年も持ち続けてきた文化をポイしちゃって、ちょんまげも含めてポイしちゃった訳でしょう。で、戦後にそれがもう一回あった。この国は、なんというかスゲー、器用、それ故に持ち合わせてる深さみたいな重みがゼロっていう。思想で突っ走らない感じが凄くよいとも言うし、民族的な理想もとくに掲げていない。どちらかというと、無理矢理に国民という暗示をかけられているだけで、その輪というのは、薄く細いものだと思うんだよね。でね、なんでこういう事書き始めたかというと、伝統は伝統として残っているけれど、今はほとんど機能してない訳じゃないですか、デザインをしてリバイバル的な扱いを受けているものもあるものの、それを扱う真相というのは、とことん浅い。例えばさ、この感覚で、深い重い、文化というのを浅いところで作ったら面白いと思ったんだよね。それこそグラフィックデザインの可能性でもあるし、花形装飾活字という面白いおもちゃがあるってなもんで。変に日本の伝統をリバイバルだと、終着は目に見えてると思うんだよね。時間という経過のものだから、そりゃ深みもあるし重い。でもその行動というのは掬い取るくらいの事しか出来ない訳。それを掘り下げていく作業が出来るほど、あいつらは変化を望んでいないし、維持していくのに必死ささえ感じるんだよね。まあ、それはそれで成り立っているから良いとして、ようは、今から花形装飾活字を使って、伝統を始めてみたらという提案なんだけど、どうかな。ちょっと面白いと思うんだけど。結局そういう事だと考えてるんだけど。ボクと一緒に、あなただけの花形装飾活字を作って、「所有」してみませんか。時間は少しかかるし、一緒に考えていかないといけないから、サービスみたいには無理だろうけど、もし、よかったら声かけてください。お待ちしてます。



花形装飾活字を愛でる その178

可能性についてです。もしくは、これから行なう研究の方向性についてです。ボチボチ書いてはきてますが、個人で行なう研究という単位については、限界を感じ始めています。花形装飾活字と、そうでない境界線みたいなものが薄っすら見えてきて、何が花形装飾活字なのかという深度が明確にはっきりしてきました。次に起こす行動として、これらをより確信に近づける為のものをと考えています。そもそもの花形装飾活字という研究の始まりは、これが一体なんなのか、謎の魅力を放っている不思議な物体に対して、紐解き、「知」としてそれを知る事にあります。「もの事を見てから、イメージをする。」その手法を、花形装飾活字を用いた上で、より深き深度で行なう事が、この研究の第一の目的でした。それをもっと確定的なものにしたい、加速させたいという思いがずっとあって、同時に、個人でやる研究に行き詰まりみたいなものも感じていました。まあ、だいたい花形装飾活字は分かったし、もういいかなーと思う心が半分、いやいや、まだまだ可能性に溢れていて、研究する価値があるんじゃないかなという想いが半分な気がしています。今も実際そうなんだけど、どうせなら、そのぽっかり空いた半分の、もういいかなあという心にかけてみてもいいと思ったんですね。つまり、手が空いたって事だよね。今まで両手じゃなきゃ出来なかった事が片手間でよくなったと考えた方が良いと感じた訳です。それが全てだって訳じゃないけれど、単に辞めるってのは面白くないよねという話でもあるし、せっかく得た、花形装飾活字作れるという希少な技術を、このまま捨て置くのはスゲーもったないと自分で思ったし、最近、周りからそういう事を言われ始めてもいて、作った花形装飾活字そのものの、知的財産の所有や、特許や著作権的な在り方は難しいけれど、この作れる自分と言うのは、自分しかいない訳で、そういう事に翻弄されるくらいなら、やっぱ、ガシガシ作る続けたいという気持ちが勝ったという具合です。この花形装飾活字を「所有」するのは僕ではない方がいい。これを持つべき人間は他にいるてなもんだと思ってます。だってそれがグラフィックデザインだし、グラフィックデザインの使命というか在り方と、花形装飾活字重ねるなら、そこらへんも、ちゃんと考えなアカンというか、すぐにも行動に移すべきだなと考えました。なんで、こんなにグラフィックデザインは「消費」して「捨てられる」対象になっちゃったのか、ボクにとってはグラフィックデザインを始めた当初からの疑問でした。10年という時間が経ったけれど、何も変わっちゃいない。変わるどころか、そのスピードは加速されていくばかりで、物事は悪い方向に進むばかりです。1つ、面白い例があります。ボクがデザインを担当させていただいたWEBサイトがあります。そのWEBサイトは8年間、一度もリニューアルをしていません。システム的な中身はリフレッシュを繰り返していますが、「WEBデザイン」を一切リニューアルせず、ずっと使っていただいています。むしろ8年間、広告の要として使っていただいています。果たしてデザインの「古い」は使い捨てられる「古い」でしょうか。物質としての「古さ」や、技術としての「古さ」のようなものは擁護する事は出来ませんが、デザインとは何か。その答えとともに、花形装飾活字の可能性があるような気がしています。



花形装飾活字を愛でる その177

という事で、「fuji」における使用の解説は以上です。ズバリ!やっぱ簡単なんですよね。何回も書きますが、簡単だから、使用方法に関してそんなに書くことが無いっていう。なんというか落とし込みの方法の部分で完成の自由を、水草よりもちょこっと無くした感じが、この「fuji」というものでもあって、だから廉価版と書き綴ってる訳ですが、結局というか、やはり、研究という観点でいうところの花形装飾活字という在り方そのものを追求するには、そろそろ限界を感じていたりしています。もちろん可能性という観点で見ると間口は全然広がっているんですが、とりあえず、ある、到達点に達したという感覚が一番近いのかもしれません。テクノロジーに限界は無くても、方法論には限界があるみたいな。これからは多分、この確立した方法論を使って何が出来るかという事をしていくような気がします。もちろんその一方で、ボクが追求した花形装飾活字という方法論は穴だらけでもあって、その穴を埋める作業というのもこれからやっていく事にはなりそうです。「fuji」はボクの中では、まだまだ未完で、もちろん花形装飾活字としては完成しているんだけど、それが実際に使われるシーンがあってこそものだから、未完、なんですね。こういうのは、そろそろどっちかだよなと、感じています。花形装飾活字という存在の物珍しさが薄くなっているというのは凄く感じているし、次にやんなきゃいけない事が、それがいかに現代のシーンにマッチしていて使われるべき対象なのか、の証明なんだろうなと。それを多分この「fuji」という存在をかわきりに行なっていく事になりそうです。詳細は後日発表しますが、やっぱり利用されるべきシーンに沿った花形装飾活字というものが、実は重要で、ただ過去と違うのは、印刷が案外、当時より誰でも出来るものになっているという事実なんだよね。つまりシーンが多様化しているという事。パブリックな存在ではなく、いかに個人のクローズドな世界に沿ったものを考えるかに焦点が当たりつつあるように感じています。それがつまりグラフィックデザインが対処する標的でもあるし、それが同時に花形装飾活字が利用される可能性でもあるんだと感じています。花形装飾活字は定着型のグラフィックデザインだと言えます。長く使えるものだとも言えます。瞬発的な感覚で素材として使うというのは、いささか浅はかなように感じるというか。むしろ、それをグラフィックデザインをする側が所有するのではなく、クライアント個人がそれを所有し、グラフィックデザイナーはそれを利用してグラフィックデザインを行なうというのが、なんというか想像での正しき形なのかなとも思ったりしていて、つまり、ここにある花形装飾活字は、グラフィックデザイナーの側に買って欲しくないというのが本音なんですね。むしろ、個人の「所有物」の感覚で買って欲しいんです。「素材」では決してなくて、これを利用してグラフィックデザインをして欲しいと、グラフィックデザイナーに頼める一手として使って欲しいんですね。これをグラフィックデザイナー側が提案して使うというのは、まず、いささか理想的ではないし、少し花形装飾活字に対して暴力的かなとも感じたりしています。いわゆる家紋のような感覚?消費するんではなくて、ずっと持っていて、それを使い続けるという感覚が花形装飾活字なのかとも感じていて、次にやる事の視点はそこにこそあるという感じです。何もボクは、この花形装飾活字を書体として売り出したい、素材として売り出したいというものではないんです。なんというか、その人のために、花形装飾活字という所有物として仕立てる、仕立て屋さんみたいな事をしてみたいんですよね。これはホント、凄く贅沢な事だと思います。だって、個人で花形装飾活字を持って、それをグラフィックデザインで利用しようと言うんですから!わかりますかね!このウキウキ感。是非一緒に作りたいです。詳細は後日公開なんて書きましたが、是非に声をかけてあげてください!お待ちしています…。



花形装飾活字を愛でる その176



そして、ペアにしたものを並べていきます。この場合には版である事を意識した方が並べやすいかと思います。もちろん単体のものを版として配置していいんですが、こういう具合で一度密度を定めた方が、使い勝手や使いこなすという意味では正しい方法になります。しかしこれは古典的な組みを意識した場合の方法論でもあるので、その使い方を限定するものではありません。単体の個々の役割としては、水草的は流れを手に入れる為に、古典という視点から見るとバランスがアンバランスな状態にあるます。なので、シンメトリーに組んだときに、かみ合わせの悪さというか、なんとも腰の落ち着かない、一定のリズムのつまらないものになる可能性が出てくるので、こうやって予めペアで組んだものを1つの版として使用する事で、古典的なバランスを得る事が出来るのです。



花形装飾活字を愛でる その175



2つの版を使ってペアを作るという方法です。版そのものの装飾ルールが単純なのと、曲線の比率を合わせた作りをしているので、とくにコツとか必要もなく、インスピレーションでペアを作る事が出来ます。なんというかそれこそ各々の美的センスで組み合わせるべきだと思います。また、これに慣れてくると、流れのある組みにも自然と適応していけるという一石二鳥の方法です。この「花形装飾活字fuji」の開発で目指したところでもあるんだけど、要素を減らした上でいかに質を向上するかという面でも、このペアという考え方はあって、エンスヘデのやつにしろ、結局、ペアで組んだものが本領を発揮し、それらがパーツとなり紙面を構成するパターンが多かったんですね。数を種類を多く使えばいいというものでは無かったんです。でもルールを限定しすぎて、単なる装飾にしてしまうのは、花形装飾活字として開発するからにはしたくなかったし、今までの研究の流れからも絶対に無い方向性でもありました。でも、要素やルールを増やせば増やすほど、能力は高まるけれど、使い勝手の悪いものになるという。なんとも狭間というか、本当は、ルールを制限しつつ、その能力を最大限にいかせる限定的なものにしていくというのが正しき開発でもあるんだけど、これが単に花形装飾活字という単体の開発においては、このfujiが限界なのかなとも感じていたりします。やはり、何か目的がある視点での、その部分で限定的な要素における花形装飾活字なら、次のステップにいけるような気も。ただ、このペアという発想は、とある視点での到達点であるようにも感じていて、隣合う版がいかにペアといて成り立つかという点に関して、それこそが花形装飾活字であるように思います。結局、全体としての構成も含めて、その全てはブロックや領域で成り立つのだとすれば、それらが始めて発生する要素としての可能性。つまり文字でいうところの1文字だけでは意味を持たない、平仮名、アルファベットのような感覚に近い、組み合わせるという言語の構築でもある、ブロックとして形成の始めでもあります。単に花形装飾活字という特性の中でその装飾の複雑さや、ある一定の技能を有するルールの構築の必要性を除いた場合に、ペアである事がもっとも単純で素であると考えています。モールス信号?のような言語形成。それが意味を持たないというだけの話です。彼らはイメージという海で物語ってはいるんですけどね。



花形装飾活字を愛でる その174



日本語との愛称についてです。装飾の密度としては「新・花形装飾活字水草」に通じるところがあるので、日本語にも充分に耐えれる仕様になっています。ルールについても、やっぱり「水草」の組み方が日本語に合う組み方といういう事で、水草のように組めるようになっています。ただ水草のように連結するというイメージよりも。流れに任せて流れていくような、いわゆる「流動的」パターンに偏った設計になっています。なおかつ重力の方向が一定の方向なので、今回は全てを下の方向にしてますが、その特性を使い向きを変える事で紙面におけるバランスをコントロール出来ます。装飾のパターンでもある「葉」と「花」の向きにも気を使う事で内側と外側の概念も簡単に作り出す事が出来、また、その逆にそれらを意識的に変化付けていく事で、また違った味わいにする事も可能です。日本語はイメージの強い文字なので、どうしても控えめに配置しがちですが、イメージの深度として階層の文字とは違うところにしてあるので、大胆に並べてみても面白いかと思います。また、「水草」ほどは紙面の支配するようなタイプのものではないので、まず文字の配置を決めてから、後から構成を考えての補助機能としても充分に使えます。組みにしても、版単体でも充分にアクセントになる事から、紙面伝体を組むという意識は上記でも書いたとおり、少し無くして、無意識に並べたものを、気分に乗ったとおりに配置するというやり方が日本語での使用の場合には正しいように思います。もちろん、紙面全体の構成を考えつつも可能な訳ですが。



花形装飾活字を愛でる その173

では「fuji」はという話。作業そのものは今までと同様にグラフィックデザインだったと言えるし、それが花形装飾活字と分類されるものの範囲であったとも言える訳です。結果、文字になんらかの現象をもたらす事が出来たんですが、個人的な解釈としては、それが単に花形装飾活字と分類されているというだけで、文字そのものや装飾そのものの単体がもたらす現象ではないと見ています。例えばそれは写真でも可能だと思うし、何かの組み合わせにおける、一種の麻薬のような快感に近いような気がしています。その中で文字というイメージの塊のような産物にこそ、花形装飾活字が合うという事になります。日本語の書体が、よりスタイリッシュで味気の無い軽めの書体になってきているのは、それをとりまく環境や技術、イメージが本来の文字が持つ強さを補えなくなってしまっているところにあるからで、それが単に嗜好や方向性によるものだという判断は少し早いような気がします。この花形装飾活字だって、そうした文字の変化に呼応して新しい形になるべきだったし、そうなる必然にあったのだけど、何故か装飾の部分の快感のみがクローズアップされて、イメージの淘汰が起き、結果、捨てられたっていう…。なんでこんなに僕がこの花形装飾活字を押してこうやって活動しているのかは、ずっと書いてるけど、それがグラフィックデザインだったからで、まだまだ可能性というか、方法論として、キチンと考えられてきてないなという感覚と、いやいやまだまだ過去の遺物にするにはまだ早いでしょ、っていうくらい現代のグラフィックデザインの荒みかたが半端なかったんですよね。とくに僕なんかはコンピュータ世代から入った訳だし、その中においてこうやって、花形装飾活字に出会えたことは別に変わった事でもなく、必然なように思います。それは懐古や回帰的な考え方じゃなくって、文字を単純にかっこよく見せる手段として追い求めた結果の選択肢の1つとして充分に使われるべき対象だったんですよね。で、ここからが今日書きたかった事なんですけど、これはあくまでグラフィックデザインという世界での研磨でしかないんだけど、実は文字という考え方は、グラフィックデザインではないような気がしていて、境界線を引いた時に、どうしても文字を入れて考えると少しズレテくる感じがあって、これは一体なんなのかと考えた時に、文字をグラフィックデザインを使って考えるという視点で見ると、ピタっと合う感じがしたんです。つまり、今まで文字をかっこよく見せようとしていた行動というのは、文字もグラフィックデザインの境界線の中の出来事ではなく、それをグラフィックデザインという技法で内包する作業だった訳です。この考えが出た時に、もし、絵という1枚の平面に表示される要素の中で、それがグラフィックデザインかという答えに大きな疑問を残すものとなりました。重要な事は、文字は文字、写真は写真、絵は絵であるという認識であって、それらがグラフィックデザインであるというのは違うのではないかというものです。で、で、そこで花形装飾活字の登場です。この花形装飾活字というのは、これそのものがグラフィックデザインであるとホントずっと書いてきましたが、この感覚というのは、文字は文字、写真は写真、絵は絵という要素にグラフィックデザインを内包させる行動そのものに圧倒的に近いんですね。むしろそれを具現化し、唯一、こんなにも文字という対象に近づく事の出来た現象だったんですよ!つまり、これは写真や絵には真似が出来ないというものです。それはもちろん花形装飾活字がその領域を出ない発想であるのと同義ではあるんですが…。絵や写真をグラフィックデザインとするなら、装飾やイメージの部分の快感のみに浸るのではなく、グラフィックデザイナーなんて名乗るんなら、そこらへん一度整理して考えてみるべきな気がします。もしね、文字という対象が常にそこにあるならね。花形装飾活字をそういう感じで一食沙汰に見ないでねという話でした。

次回から「fuji」の解説に戻ります。



花形装飾活字を愛でる その172

 なんか話が変わってきたので「fuji」の事はひとまず置いといて、気になるのは、グラフィックデザインがなんでこんなにカッコイイのかという事なんだよね。それは花形装飾活字がカッコイイと同義なような気がしていて、某有名な人はデザインは未知化する事とか言ってるけど、とくに視覚に起因するグラフィックデザインなんかは、むしろ「知」の部分が大半を占めてるんじゃないかな。視るという感覚は他の感覚よりも優れていると思っているし(情報の収集という意味で)、それが記憶として残る大部分を担っているとも思っているんだよね。その中において未知的な感覚というものが果たして存在するのかという事だよね。視た事が無いものを視た時の感動は一入に募るものだが、それもやはり視たという記憶の感覚の再構築にこそ、その感動がある訳で、脳が感じる「未知」という感性が織り成す奇跡とやらも、なんとも疑わしいものだと考えているんだよね。重要な事は、それを知らない事や知っている事などではなくって、それを視たという現実であり、リアリティにこそあって、それを感じている人間自身は実は脳という記憶装置に従って感動しているにすぎないというのがボクの考えな訳です。あくまで装置の機能であり、視るという動作になんら関係のないものだと思ってます。それは「想像してから視る」いう事と「視てから想像する」くらいの違いはあるのかなと。グラフィックデザインはどちらかというと後者ですよね。そして花形装飾活字も明らかに後者という事になる。カッコイイと感じているのは脳や魂が原因とする人間の根本ではなくって、視たという感覚そのものであり、それをただ感情という装置が反応しているにすぎないという視点。要するに花形装飾活字と活字(文字)の関係ってそこにあるような気がしていて、花形装飾活字という彩りというのは想像する活字の世界のなんら1つの要因にもならないものという定義で間違いないように思うんだよね。現在ではイメージが文字に相乗効果を与えるようなものがグラフィックデザインとして用いられているけれど、そもそもグラフィックデザインがコミュニケーションの一因なのであれば、イメージが先行するようなものは果たして正解かどうかは大きな疑問の余地があるように感じます。もしね、それがグラフィックデザインならねという話。それがグラフィックデザインという領域で作業するなら、イメージの先行とグラフィックデザインは同じにするのはあまりのも危険ではないのかな。そこにコミュニケーションが生まれるかどうかは実際の人間社会における、ある種の勘違いの連続のようなものに似ているような。で、多分それが底辺にあって、あの某有名な人は「未知化」と言うてるのではないのかな。ただ知らないものにするだけでは少し浅はかなもののような気がするし、花形装飾活字も実は「未知化」が可能で、ただそれが、デザイン、もしくは、グラフィックデザインに繋げるには少し暴力的な気がしていて、違う某有名な人は「視た事が無いものを視たいだけ」とも言ってる。感覚的にはそれが一番近いと思うよね。花形装飾活字と活字の関係って、活字というものを花形装飾活字を使う事で視た事が無いものにするという感覚。ただそれをまた「未知化」ともいうが、それがグラフィックデザインという動作かどうかは、踏み込みすぎかなという感じ。



花形装飾活字を愛でる その171



ただ、あくまで設計という概念の話であって、実際の利用において結局は花形装飾活字の域を出ないというのが実際の話。それはもちろんそれが花形装飾活字であるが故であり、それとは違うものを作るというのは、その領域において、やっぱなんか違うんだろうなあというのが本音の話。これはいつも書いてるけれど、単に装飾ならそれを描いた方が絶対にいいし、花形装飾活字風とか的なら、最初からそのスタンスでやるものね。とりあえず大きい声で言うとくと、ここにあるのは全て花形装飾活字で間違いはないと思うし、それに恥じないクオリティまでに高めていると思う。これはグラフィックデザインの領域が、その外に出ないのと一緒で、その利用においてのレスポンスこそが、後のクリエイティビティに影響を与えているのだと考えられるし。つまり、これそのものの要素が魅力的なのではなく、それを取り巻く環境において、今、花形装飾活字を改めて提示する事にこそ魅力が存在しているという感じ。ありとあらゆるイメージがテクノロジーの進化によって自由に操作出来る現在において、これからももっともっとテクノロジーの進化によって、その自由度の幅は広がっていくものだと考えられるが、果たして中身はどうかというと怪しいものである。なんというか、重要な部分がスッカラカンではないかという恐怖観念さえ沸いてくるほどだ。その中において「fuji」の開発の在り方は光を与える方法論だったように思う。結局、私達は何を見て何を感じて生きているという根本を掘り起こす作業にこそグラフィックデザインはあるのだから、新しさや快感、エッセンスの部分よりも、普段の自分達が何をみて心地よく思っているかをグラフィック化する意義に関して「fuji」は問う事が出来たように思うんだよね。なんだかんだいって、これからも「文字」そのものの利用は終わらないだろうし、もし「文字」を使っていくのだったら、花形装飾活字という1つの答えを使う事は間違いじゃない。最近はとくに日本語の「文字」そのものの装飾性は削ぎ落とされて、判読性における機能がクローズアップされるようになってきた。悪くいえば味の無い無機質でなものが増えてきているように思う。現代において、それがカッコイイと認識されているし、グラフィックデザイン、もしくは紙面のデザインが欧米よりの現在は、少なからず日本語に対してコンプレックスはあったろうし、それは極々当然の流れのように感じる。そこで1つの疑問があって、読むスピードや判読性の心地よさは、「文字」という心地よさに依存したものなのかどうかという点である。いわゆる日本の美に通じる情緒的な読みにくさというのは、果たして心地さではないという判断で正解なのか。ていうか、日本の美というのは、そこにあったのか?なんであえて、それを消して美を求めるのか。それが日本語なのに?









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