花形装飾活字を愛でる その190



というものを固着させるとどうなるか。それそのものの行動は装飾というパターンの構築でした。では行動の末の結果は何を生むのか。その答えを示したのが「FUJI」でした。「FUJI」は、水草は和風に変換する作業をおこなったにすぎません。その作業というのは、所謂、西洋から見た日本という視点です。そもそも和風という言葉が既に西洋からの視点なんだけどね。本当に正しいの西洋風なんて言い方が正しい訳で、今はまったく逆になっているのが現状なんじゃないかな。かつて、日本のデザインのメインストリートを逝った伝統工芸でさえも和風と称されるようになっている。という事は、それらは既にボク達のアイデンティティの中で消滅した存在なんだよね。だからこそ、ボク達は日本ぽいものを和風と呼び、西洋の最新をハイセンスに感じる。本来受け入れがたいはずの外の文化の方がめずらしいはずなのにね。不思議な話である。土壌が浮いた状態になるとどうなるのか。西洋にて日本という存在を捉えた時に、どうなるのか。その疑問を明らかにしたのがFUJIであり、その制作でした。本来の花形装飾活字に水草という存在を上乗せした訳です。するとそれが和風である言葉の正しさなような気がします。ボク達が普段口にしている和の表現や、和風なんて言葉が、どれだけ上っ面で情けない視点かを訴えたかったというのもあったような。本当は抱えておかなければいけなかったのに、何も継いでいないこの現状が、なんとも寂しく悲しいなと感じます。せっかくリミックスして独自に発展をさせてきた日本の文化を〜風だとか〜的と言うのはあまりにも表現の土台としては甘いのかなと。せっかくだから、自分達の土壌から上乗せした西洋を西洋風に作り変えるくらいの気概が欲しい。実際に明治や大正の初め頃はそれが積極的に行なわれていたわけだし。今はどうなんだろう。単に浸透しすぎて、化学変化を起こす隙間がなくなってしまったのだろうか。否、それは違うと思います。まだまだやれる事はありまくるような気がします。その一手として、このFUJIがあります。そしてボクの花形装飾活字に対する思考も、一旦の終焉を迎えました。どちらかというと、このあとの公開のデータは、残りの遣り残しを片付ける意識が強かったような。もしくは、このFUJIの完成を見て、自分の中で、かなり奥深くまで花形装飾活字の根が張り付いたと確信したとも言えるかも。そしてFUJIがなぜこんなに日本的で和風なのは、西洋の視点からというのも、結局は作るイメージの階層の問題であり、作風や、個性うんぬんよりも、とある知恵の源泉の在り方が、作るものへの影響なのだとも感じました。次やろうとしている事が、単に花形装飾活字を活用しよう、させようという活動では無い事を、これを読んで感じとって貰えたかと思います。



花形装飾活字を愛でる その189



水草は20代の全てかけた制作でした。この価値は揺らいでいない。自分が作りうるモノの中で、もしくは、自分が作りうる花形装飾活字の中で、多分、これ以上のものは出来ないと思う。それくらい、ずっと輝いているし素晴らしい。ええ、自画自賛ですが、どんなにシステムや装飾を欲張ったところで、この水草には軽々と追いつかないんじゃないかな。先のOLDTYPE001にしても、たしかに素晴らしいものだけど、装飾のパターンという領域からは飛び出る事は出来ていないし、なんしかあれについては古典的なものでしかないという制約の元で成り立っているんだよね。水草そのものにはパターンが無い。何故なら装飾ではないから。単に、イメージの階層をコントロールし、その紙面における感覚を理屈じゃない部分で研ぎ澄ましたものだからです。模様ではない構築と、装飾ではない彩りは、かつてないパターンを可能にしています。「意識」しないで並べる事の出来る、価値や時間に縛られない新しい装飾。ただ、存在としてあるという状況、無意識でありながら、導かれる状況。そして文字という意味を与える事で、成立する紙面。全てが無作為であり、それを意図という言葉でくくってはいけないのです。これは西洋の美意識の一切を切り取った「装飾」であり、これこそが日本という美意識においてグラフィックデザインという概念を実現する可能性だと感じています。何もないという事。空間そのものの演出ではなく、何も無いという空間を作り出す事。それが水草です。この感覚を是非味わって欲しい。よくこの水草はわかりにくいという感想をいただきますが、それはわからないのであって、単に初めて触れて、見るものだからだと思います。ここでは少し価格の高い設定にしていますが、この感覚を得るには安いと思います。もちろん活用出来る可能性も含めて。どうぞよろしく。



花形装飾活字を愛でる その188



そして、パターンそのものを作る事をパターン化する目的で作ったのが「imagest」。これはパターンからの自由を求めて作ったのだけど、結局これも装飾のパターンを構成するところに落ち着いた。自由にする事で世界観や時代観からの脱却を計ったのだけど、それさえもやはり装飾にする事でパターン化され、統一化される事になった。それに比べてルールに縛りまくった「エンスヘデ」の方が、何故か自由に溢れていた。あ、「imagest」値段が高い!という声を聞くんだけど、あくまで「エンスヘデ」基準なのであしからず、あんなのが1万とかそこらで手に入っちゃいけないし、10万でも安いくらい。それが文章を書くだけでゲット出来るってんだから、あーた!と、話を戻して、そうその「エンスヘデ」の方が自由に溢れていて、そういう意味で「imagest」は実験だったんだよね。もちろん完成という前提です。イメージにおいて、装飾において、自由とは開放ではなかった。たしかに自由度は上がるが、それはパターンから逃避でしかなかったんだよね。開放かと思ってたんだけど、取り除いただけだった。というか取り除いたらどうなるか見てみたかっただけなんだけど…。装飾においての自由とは、圧倒的な世界を作る事、ありとあらゆる思考で仕組み、全てにおいて配慮する事にあったんだよね。この3つが合わさったのが花形装飾活字だと定義していいと思うし、ポイントはなによりも配慮するというところにあって、世界を作る事や仕組む事はどちらかというと、時代や作る意図や技術の部分でもあるし、もちろんそれだけでも花形装飾活字という定義は維持されるんだろうけど。なんというか花形装飾活字とは使うという事を目的にした、プロダクトに近いような気がしたんだよね。実際のところ「エンスヘデ」よりも「imagest」の方が使いやすいというのを言う人が多いのは、おそらく感覚としてリアルタイムじゃないのと、使う人間の技術の底辺の在りどころが変わったから。昔の方が凄かったという事で〆るつもりは全然なくって、ただ、当時の事を知らないで、使うのはやはり無謀というか、当時の発想で作ったものを現代の発想で使うというのは、あまりにも無謀なんじゃないかな。もし現代の共通言語で言うなら、花形装飾活字は「アドビ製品」のようなものだった。ボク達はイラストレーターやフォトショップのおかげで圧倒的な自由を得ているけれど、発想そのものは花形装飾活字となんら変わりがないんだよね。ただ、この論は境界を無くしすぎている感じもあるので、結論とはしないけれど、何を完成とし、技術とし、それらがどう使われていくのか、シーンとニーズで考えた場合に、イラストレーターやフォトショップによって、パターン化されたモノ作りを行なっているだけなんだよね。どんなにそれがオリジナリティに溢れていようとも、なんとも凄い色々出来る機織り機を使っているに過ぎないわけで。でも、それがダメって事じゃないよ、とくに否定する訳じゃないけれど、花形装飾活字も同じ位置にあると決めてしまった方が使いやすいし、作りやすいという一面があるのも確かなんだよね。装飾の時点で既にパターン化されたものなんだから、そのパターンを複雑にシステム化し、より自由に使えるように作られたツールが、花形装飾活字でいいと思う。むしろ、この花形装飾活字でテイストがどうとか喋るのはどっか違う気がしてて、なにをサンプリングして花形装飾活字化するのかという事を考えた方が、捉えやすいんじゃないかな。という事はシステムさえ決めてしまえば、それをパターン化し、装飾のみを変えて作りあげる事が可能という事になる。つまり、花形装飾活字の可能性であり、そこがスゲーとこなんだけど。個人的には、装飾を考えるというよりかは、その仕組みや配慮の仕方を考える事の方が好みかな。で趣向で装飾を決めている感じ。この別軸感は花形装飾活字を使う上で保った方がいい。



花形装飾活字を愛でる その187



なんというか結局、装飾とはパターンでしかない。ある不合理なパターンをランダムに並べたとしても、結局は合理的なパターンに集約される。川原で拾ってきた石ころでも、それらをパターン化する事によって、装飾とする事が出来る。自分達が描いているイメージでさえも、それがオリジナリティやテイストという言葉で開放されたとしても、いずれはパターン化され図式化される。いわゆる手癖のようなもの。その現象をリアルタイムに利用しようとしたのがデザインという姿勢であり方法だったんだけど、もちろん現代も使われているし、どんどんと活用していくべき方法ではあるとは思うんだよね。でも、そもそものパターン化されるべき現象が無ければ、意味が無いという事も察しなくてはいけない。もちろん、この花形装飾活字も同じ事が言えて、いかに、装飾をパターン化して綺麗に並べたとしても、元々の現象を踏まえていないと、そのパターンが崩壊しちゃう訳です。同時にそれは花形装飾活字という危うさでもあって、古さや新しさにも関係しているかもしれない。もしかしたら、現代じゃないと使えない、もしくは、当時の人が考えもつかなかったものが得られるかもしれない。パターンでしかないが故に、それはパターンで無くなった瞬間に、定義された装飾とは言えなくなってしまう。とくに、エンスヘデのやつに関して述べれば、何を装飾のパターンとし、どの作業を活版という技術に委ねたのかというのが大きなポイントだと思うんですよね。わかりますかね…。このデータを使ってみたけど、ウマク使えないという方は耳を傾けていただければ嬉しいんだけど、1つ1つの版はパターン化された装飾なんだよね。だから単体でも凄く使えるしカッコイイんだけど、それだけだと、この花形装飾活字という思慮深さには全然、手が届いた事にならない訳で、時代や世界、活版という技術…etcの意図を汲み取りつつも、一番大切な事は「思い通り」に組まない事です。再度書きますが、これはパターン化された装飾なんだよね。もし、ウマク組みたいなら、自分の思った通りに組んじゃいけない。これは装飾という名の「知恵」であり、そこに創造は存在しない。全てがパターンで構成され、その奥深さが故に、壮大なランダムが生まれているように見えているだけ。そして、それを時間という流れの中で、リアルタイムで構成されている。つまり、全てのデザインは、この花形装飾活字が、花形装飾活字として存在した時点で全工程が終了しているって事。残念ながら、ボク達がする事なんてないし、これを使用したところで、真のオリジナリティに辿り着く事はないんです。エンスヘデのものは、なんとも憎らしくも、その完成度が恐ろしく高い。同時に世界観が設定されて、使いにくい人には圧倒的に使いにくいものになっている。それは何故なのは、もう書いたので書かないけれど、もはや、パターンの構築さえも終わってるのかもしれない。だとしたら凄い話だべ。それはデザインの領域を超えたところで定義が行なわれているという事になる。と言いつつも、ボク自身は、これにそこまでの信頼は寄せてないけれど、デザインという定義は埋まるのは確かでもあるし、言葉にするなら、「物凄く配慮されている」状態なんだと思う。ホント、勉強させられちゃうよね、先人の方が、グラフィックデザインと印刷の境界をキチンと見極めてたって事だからなあ。もっと言うと、印刷という作業にだけ、活版という技術にまで、パターン化は施さなかったからこそ、ここまでの自由が発生している。それは多分、領分が違うという理由だけでいいような気がする。



花形装飾活字を愛でる その186



この花形装飾活字を配布するといった活動の中で、というよりも3年ほどの配布で、たくさんの方々にこのデータをお渡しした中で色々気付いた事や、実際に使われていく中で多様なその使用を観察してきて、ああなるほどなー的な事がいろいろあったんだよね。なので、客観的にグラフにしてみたり、数値的にその分布を図にしてみたり楽しんでいたのだけど、やはり、なんというか、この花形装飾活字というのは、その提供ではなく使用という一途で考えた場合に「思慮深さ」にこそあるという結論にやはり辿り着きました。単に装飾が綺麗だからという一面だけでなく、その知恵ととも内包しながら使えている人なんて、マジで一握りという結果になったのはなかなか面白く観察させていただきました。案外、グラフィックデザイナーの方から欲しいという声が少なかったのが特徴でした。それよりも、どちらかというと、趣向的に好みの方に興味を持っていただける傾向にあるように思います。ていうか、デザイナーの方はこういうのは自分でつくる対象であり参考でしかないんだろうなと感じています。実際にこれが使われるシーンなんてある事が少ないから実践出来ないからこそプロとして避けていたのかなという感想です。ただ、技術的な意向が強いのか、配布に関しての問い合わせよりも技術的な質問な問い合わせが多かったんだよね。実際のところ、これら花形装飾活字というものを認識する上では、果てしなく時間がかかるし、まず底辺として、これら装飾は今のグラフィックデザインのメインストリーム的にそぐわないし、否定の対象にもなっている事は、時代だから仕方ないなあという感じです。1つこれから調べていきたい事でもあるんだけど、それを使いたいのか、所有したいのかで相当に、その使用の奥深さみたいな事に変化があったんだよね。これは面白い結果だったし、ボクも実感していきたい1つの在り方なんだけど、例えば、使いたいと思って、問い合わせしていただいて、それを目的に沿って使った後に、どのように扱われているのか、という点において、大きな疑問がある訳です。いったいそのデータはどうなるんだろう、その人にとって、もういらないものになるのか、所有物としてずっと扱っていただけているんだろうか。単なるコンテンツとしてでしかなかったのか…etc。いらないものになったとしては、それらはその後どうなるのか、このなんとも曖昧な価値の存在において、ある一方で重宝されて、ある一方では、ゴミになっている状況って絶対にあると思うんですね。そしてそれがこの扱われ方という事において、人それぞれで変わってくるという花形装飾活字の面白いところのように思います。でも、これも面白かったんだけど、使う人によって、まったく使われ方が違うという事です。もちろん、その装飾の組み方から、目前に構えているシーンまで、その至る全てに違いが発生していて、これから、ボクも大筆振って、さあ使っていくぞ!ってなっても全然遅くないんだよね。もしかしたら、無償で配布していたら状況は変わっていたかもだけど、この花形装飾活字というやつは、持っているだけでは何の役にも立たないし、用途が無いと使えない、使う知恵もなければ、ウマイとヘタが発生するっていう。これはおそらく時代にマッチしていないだけとも言えるんだろうけど、その今の時代の多様化した浅はかさみたいなものを実際に垣間見れたような気がします。ズバリ、ディープに物事に接している人のなんと少ない事か。しかもそのディープさが面白いという人のなんと少ない事か。今のデザインの事情として、キチンと作るよりも、広く浅く作った方がウマクいく現状を感じていて、これとダブってしまって…、つまりイメージの構築が進んだ訳です。印象という偶像が相当支配をしていて、目の当たりにしているものよりも、イメージが先行するという奇奇怪怪な事が起こっているんです。この発言は古臭い!と言われれば一言で済むんだろうけど、結局、でも、この花形装飾活字というものを印象や偶像で組み立てたところで、ウマクは使えないんだよね。それどころか、なんとも歯の浮いた結果になるっていう。なんだろう、なんというか、それでもマッチする瞬間ってあって、逆にイメージが多様化してくれいるおかげで、この花形装飾活字が使われるシーンというのも同時に、増えてるし、増えていくと思うんだよね。実直な部分として、花形装飾活字というのは、ただ持っていても、ただ所有していても、なんの意味も成さないし使うのが難しい。だけども、所有しているという事が大事で、所有しているという概念が、使うというステップに移行する瞬間のようなものを産むんだと考えています。それを使うだけでは花形装飾活字は成就は出来ないんです。今の時代だからこそ、まず持つ、所有するという事が出来る。データ化しているから場所も取らないしね。その上で使う動作にこそ価値があるのだと感じます。どのように使うか、使われていくのかというのは、また別の話で。そして、ボクはそれを所有している。これをどのように使うのかで、これら花形装飾活字の価値もまた変化するものなのだと感じています。花形装飾活字はこれそのもので完成ではないんです。もちろん最初のコンセプトや見た目も重要なんだけど、その奥深い、「思慮深い」花形装飾活字の面白い部分みたいなものを、たくさんの人に味わってもらいたいと思っているし、ボクもそれがボクが所有していない、別の人が所有している上での使われ方というのを楽しみにしていたりします。わかるかな、この「花形装飾活字を愛でる」でさえも、こういう使い方だから面白いのであって、もっと使い方があるんです。それをこれから示していけたらなあと思います。



花形装飾活字を愛でる その185




なんでまたこれやねん。と自分にとりあえず突っ込んでおきます。なんか一回作ってみたかったんだよね、という一面と、持っておきたかったんだよねという、なんとも単純明快な理由から作りました。今回のものについては、元々あるものからのサンプリングであり、技術的にも古いものを引用しつつ、装飾に関しても、相当パクってます。だからオリジナルという訳じゃないです。かと言って元にあるやつがオリジナルともなかなか言い難い。なんかそういう感じのものです。いや、ほんと一回使ってみたかったし、持ってたら自慢できるかなーという一途でしかなかったりするんだけどね。多分、今回の制作でボクの花形装飾活字そのものの設計の公開は一応の終了とさせていただきます。もう、なんかわかったし、これ以上は第三者にもう少し期待されたら作ろうかなという感じ。自分からの行動では作らないと思います。まあ、気が向いたらわからないけどね。この10年で花形装飾活字というのが凄く分かった。この花形装飾活字というものを知る事で、同時にグラフィックデザインとは何かを知る事にもなったし、広義で解釈も可能になった。なんだかんだいって、一枚の白紙の紙面で起こっている出来事でしかない。なのに、こんなにも美しい!と感じたり、喜びや感動をしたり、その一旦でもある花形装飾活字という解釈の難しいものを、いかに自分のグラフィックデザインに取り入れていけばいいのかというのが、今回の、といっても10年に渡る道のりだったけれど、その判断を下す、いい判断材料でもあり、なんとも充実した研究資材だったような気がします。これは、この花形装飾活字というものは、まだまだ計り知れないポテンシャルを秘めていると思います。これから新しいステップに向けて進んでいきたいと考えています。前々から書いていますが、その方向性は大きく分けて3つ。1つはそれらが使われるシーンを自らの使用で開拓していく事、そして、第三者への花形装飾活字の提供をしていく、最後は、今まで作ってきたものの価値を引き上げる、あ、あと、今行なっている配布の活動は継続して続けていくつもりです。もしかしたら近々、配布の条件を厳しくするので、手に入れるなら今のうちかもしれませんwとくに今回の花形装飾活字については解説は行なう事はいたしません。ていうか別に新しい事もないし、既存の方法論で使えるので。ただ1つ、少し水草っぽく使えるように工夫しています。曲線に関して少し平仮名の肉に近いもの仕立てています。いわば線として曲線ではなく、肉として曲線を線で表現し、それを古典的な装飾に当てはめた感じです。単に当てはめただけなので、早く出来上がった訳ですね。ちなみに001とナンバリングしているのは、含みです。新しい発想で作って公開する事はまずもうありませんが、古典的なものに関しては、もしかしたら気が向けばやるかもしれないwという感じ。なんというか今回のこのOLDTYPE001に関しては、ずっとこういうのは作れる知恵も技術もあったんだけど、その中で「水草」や「FUJI」が生まれてきたのだという事を知ってほしかったんだよね。なんでimagestを実験と呼んだのかも加えてです。ていうかオレ、こんなんもばっちり作れんだぜ!みたいな。いわば、この10年間は準備期間でした。これから大筆振って、この花形装飾活字達を使っていきたいと思います。グラフィックデザインに関しても既にボクにとっては、過去の幻影になってしまっているかもしれません、それくらい、全力で両腕使って関わってきたつもりです。これ以上はなんか泥沼にはまって、行き着く先は同じような気がするしね。単なる花形装飾活字の設計者でいようとも、単なるグラフィックデザイナーであろうとも思ってません。これからの活動にご期待ください。ある意味おおいに期待を裏切る結果を残していけたら幸いです。では、それでは一応ではありますが、これにて研究の報告を最後にしたいと考えております。今まで本当にありがとうございました!

あ、終わるような書き方してますが、この「愛でる」に関しては、花形装飾活字の活動の報告として使っていきますんで、今後ともよろしくお願いします!



花形装飾活字を愛でる その184



うむ、やっぱこれは使いやすいなあ。なんというか組むのが凄く簡単。単一の版でも向きを変えれば充分にランダム性を得る事が出来る。紙面に凄く馴染む感じなんだよね。主張しすぎないとことか、どんな場面でも使える。しかも形状は古典的だから、時代性もテイストもキチンと出る。スゲーなあ。やっぱ、世の中、上には上がいる。まあ、1つ欠点を言うなら特徴が無いというところだと思う。全ての花形装飾活字機能の平均点がこれに込められていると思う。それくらい、今まで見てきた中で総まとめ感が満載だし、ああ、最後の花形装飾活字なんだなwってマジで思えるもん。発展途上でも先進的でもない、成長しきった感じがヒシヒシと伝わってきます。だからこそのこの細かさでの、本来の花形装飾活字的な意義をお座成りしつつ成り立たせれてるんだろうなあ。まさしくきっちり花形装飾活字を「グラフィックデザイン」してる感じ。まあ、本当に形状はよくある感じなんだよね。細かいニュアンスも含めて。何がいいか。それは、サイズと密度かな。まずサイズがいい。それは多分、刷る紙のサイズや印刷機が一定の技術の中で規格化されてきた時代というのもありそうなんだけど、よく考えられている。とくに書籍や、手元で展開する紙媒体には圧倒的な能力を誇ると思う。後は密度、めんどくさくなく、物足りなくもなく、ほんまちょうどええ女って感じの密度です。凄く付き合いやすい。見ててカワイイ。手にしたい。そういう感じです。それが全体に渡って整理されているのは素晴らしい事だと思います。ずばり、これはグラフィックデザインが施されている証拠ですな。今回書きたかったのは、正しく時代を経たものってあると思うんですよねって事。その正しさの基準は個人的な主点でしかないんだけど、なんかいい感じで時代を経たものってあるんだよね。今の日本には凄く少ないけれど、でもちゃんと調べたり気付いたりしていくと目に入るし、生かせていけるはず。ああ、これは時代を経てないよなと。今となっては、もう一度始めからなんて絶対に無理な事だし、どちらにせよ先人が編み出したものを利用しない手はない。個人の意思とか個性なんてよりも、それらは汲み取る事で圧倒的な個性になって返却されるんだよね。それにまず気付かなきゃいけないし、ボクは気付きたいなと思って、この花形装飾活字をこうやってクローズアップしてるんだけど、ここまで時代を経てしまうと、全てを掬い取るのは無理なんだよね。あれれ、前回と良く似た流れになってしまった。あ、でも続き的な感じになってるか。そう、無理なんだよね。だとすれば掬い取るべき対象は限られるのかといえば、そういう事じゃない。重要な事はなにが新しくなったかではないかな。もしくは、その全てを知った上で、なにが新しく知識としてインプットされたかというところじゃないかな。そのフィルターを通す事で出てくる一言目が重要なのであって、それが何かという事をキチンと認識しているという前提が、より可能性を広げるような気がします。キチンと知る事。そしてそれが今どういう状況に置かれているか。その都度の感覚で見れるかどうか。そこが大切だと思うんだけど、このブルースロジャースの花形装飾活字はそこらへんのところキチンと出来てるような気がしてるんだけど。実に思慮深く、その時代をキチンと反映したものを作り出してる。もちろん、当時という意味です。だから、ボク達にはボク達の作れるものがあるはずなんだよ。今はそれが凄く見つけにくいだけ、過去が膨大にありすぎて、その拠り所が見つけられずに、ただ、空白を行なっているだけのような気がする。なんていうか、幾らかの恩恵は受けているはずなのに、何か繋がっていない感じ。これはホント考えた方がいいし。ボクはこれからもこれについては花形装飾活字に限らず見つけたいと考えてます。この花形装飾活字を触っていると、凄くそういう事をフワフワと思い描いてしまいます。



花形装飾活字を愛でる その183



この花形装飾活字を見ていると、竹久夢二の装丁を思い出します。なんというか小粋なんだよね。日本的ではないけれど、西洋的な小粋を凄く感じます。エンスヘデのやつと比べると凄くわかる。見た目にもそうなんだけど、考え方というか、よくあるじゃないですか男の人が考える女の人向けのデザインというやつです。前回に出てきた、ミュシャとは一風違った様相を伺えます。男が持つにはちょっと恥ずかしい感じというやつです。どうみてもターゲットは女性だよなあ。これはまさに対象がパブリックからプライベートに移ったって事だよね。しかもより商業的に変化を遂げたという印象だよね。より利用を考えているし、その完成に主張性というものを感じられない。組んでいても単品で使えるというよりかは、何か要素と組み合わして使うのに適しているように思います。もちろん単品でもご覧のように使えます。それは単に利用という側面だけではなく、装飾的にも何か尖ったものがあるからだと思います。やっぱり一言で言うとカワイイよなあ。思わず所有したくなるホント素晴らしいです。活版で文字を整理する為にとは言いたくない、そういう完成度を誇っているんじゃないでしょうか。竹久夢二の作るアイテムもあれで完成だったし、これも同じ事が言えるよね。どちらかというとその底辺の部分でいうと、夢二の方はより限定的な商品的なものだったけど、これは花形装飾活字という特質性もあり、完成の意味は違うのですが…。この在り方は勉強になるし真似したい。どうにも日本人というのは出来上がりを買おうという傾向にある。それが日本的と言えばそうなんだけど、結局それだと伝統になるだけだしね。使う側が作る方にもっと寄らないとダメだと思うんだよね。もっと寄って来い!話聞くよ!って感じになるよね。そういうスタイルのヒントもこれにはあるような気がします。だって結局あれでしょ、書体がそうな訳だし。皆群がってるでしょ?それを皆なんで解明しようとしないのか、もしくはしてて行動しようとしないのかは、なかなか不思議なところ。ていうか印刷は西洋のもんなんだから、細々せずにもっと大風呂敷いいと思うんだよね。気質かどうか知らないけど、それを選んだんだからさ。瓦版作ってるんじゃないし、職人的な伝統工芸してるんじゃないんだからさ。これはホント大きなヒントだと思うよ、モノ作りの。時代、利用、場所。よくもっと観察したくなるね、これを見てると。



花形装飾活字を愛でる その182



でも、これを見ると当時から既に遊んでいたし、今より全然作れているんだよなあ。技術だって活版だぜ!?こんなにここまで高められないでしょ、やれるもんならやってみろよって感じ。どんなにテクノロジーが進んだって、人間の知識や考え方が増えたって、結局はそこにいる人間の度量と能力なんだよなと思い知らされてしまいます。何が作風だよ、何が商業だよ。当時の方が全然グラフィックデザインやってんじゃねーか。なんだよ今の体たらくと能力の無さ…ありえねーわ。これ絶対にありえねーと思う。とまあ、愚痴的なものは置いてといて、版が小さいという事は、ある程度の形の構築が可能なんですね。それはもちろん活版という制約の中でというものですが、当時くらいでしたら、ミュシャあたりがリトグラフでポスター作りまくってブイブイ言わせた時と被る感じなんですけど、もちろん、描くという点で言えば、そっちに転がればいいんだろうけど、これは活版なんだよね。リトグラフ時代のポスター群を見ていると、文字に関しては終わってるレベルだし、装飾に関しては荘厳でハデなのはわかるけど、リトグラフという限界が見え隠れしたりする。そういう意味でも、ボク個人としては、リトグラフを印刷技術としては見ないようにしています。または、それをグラフィックデザインとしては見れないような気がしていて、どちかというと、画家業の新しい流れで、後のイラストレーターへと流れる1つだと思うんだよね。グラフィックデザイン的ではあるけど、実はそうじゃない。その正当はむしろ花形装飾活字であって、だからこそこんなに取り上げてるんだけど、この小さい版の組み立てたり整理したり形をこさえたりする作業というのは、それはまさにグラフィックデザインだと思います。計画をしたものが刷られていく様は、それがモニターでも通じる訳で、そこらへんの棲み分けは当時に出来ていたんだろうなと思います。逆に最近のコンピュータでの作業はググッと自由度が増えました。今までバラバラだった活版的な要素と、リトグラフ的な要素が一緒になって、よりグラフィックデザイン的になったというか、それが出来るようになったのだと思います。なんというかグラフィックデザイン化が進んだせいで、今までのリトグラフ的に画家業だったものが、素材という言葉にすり替えられて書体も同じように手軽使えるようになったんだよね。それが良かった事か悪かった事かはわからないけれど、明らかにそれを認識出来る機会が減った。そのせいで、せっかく一緒になったのに、バラバラになろうとする動きさえあるよね。今日伝えたかったのは、何がグラフィックデザインかという事。そのヒントをこれは持ちえていると思う。ボク達がグラフィックデザインと読んでるものがどこからきてどういうものなのか、いろんなものが混ざっている今だからこそ、ワザワザに分解せんでも認識くらいはしておきたいものだよね。それを知らんと大きい顔するのは、なんか違うと思う。そのスピードの中で仕事したいとも思ってます。



花形装飾活字を愛でる その181



オブジェクトにおいてカワイイを得るのは、なかなかに難しい事なんだけど、この花形装飾活字は、まさにそれが実現されている。時に女子的な可愛いさというのは、全体的な要素を含まない創造の中から生まれる、全体像であり、その一部のカワユサの構築をよく考えたのが、この花形装飾活字の特徴だと思います。なんという実際のとこはそういうところで考えたのではないのだろうけど…。これを設計した、ブルース・ロジャースという人は調べていくと、本の装丁屋さんだったんだけど、そうか、なるほどな的な花形装飾活字になっています。有名なCentaurという書体を復刻としてまとめたのもこの人だし、グーグルを調べて出てきた装丁した本も、なるほどな出来栄えでした。なんというか、まさに今でいう女子向けに作ってた人なんですよね。この花形装飾活字もCentaurという書体も、なるほど、そういう趣旨なのかと気付く事が出来るかと思います。いわゆる可愛らしさのツボをウマク押してるんだよなあ。組んでいて細々してるんだけど、全然に古典的で古い要素満載なんだけど、なんか女の人が作ったように出来上がる。どんなに男性的に組んでもです。逆にエンスヘデのやつとかはクセがいっぱいあって、ガチガチに固めた感じがあるんだけど、これは凄くいい感じにゆるいんだよね。紙面の全てを彩る事は出来ないけれど、紙面の中でアイテムを作っていくみたいな感覚。別に全体をデザインして紙をああして仕様をああしてではなくって、同じ仕様でも、配置で遊べるようになっている。オブジェクトそのものも、ややこしくない形状だし、1つ1つが実にちいさい。これって、当時にローコストで版を作れたはずだし、小ささが逆に飽きを来させない一つの工夫になっていたんじゃないかなあ。これこそ、使う人が変われば、どんどんと、その使用が変わっていくような気がします。この方式というのは、背景にある文化が変われば版そのものへ、その特徴の特化は可能なはずだし、逆に版が小さく、ここまで小回りが利くという事は、後々に版そのものも新しく増やす事が出来たんじゃないかなー。なんというか、imagestのやつの考え方をもっとルール的にしてあって、非常に完成度が高いと思います。









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