『ゆらぎと人の手によるもの』

石井 光  /  ジュエラー ・ デザイナー

まず始めに私はグラフィックデザインや印刷については全くの門外漢である事をことわっておきたい。そんな私が花形装飾活字やデザインについて思ったままに文章を書くため、専門の方々からすると的外れな意見も出てくると思うが、素人の視点からの素直な感想と思って受け止めてもらえるとありがたい。
私自身について語らせていただくと、美大で工業デザインを専攻。卒業後は自動車部品の設計・作図を仕事とする。退職後、宝飾職人の下でジュエラーとして修行、近日中にブランドを設立予定である。

デザインとは何かと問うと、ある人は『装飾を廃して機能を形にしたもの』と答え、またほかの人は『装飾そのもの』と答えるかもしれない。
何らかのデザインを仕事にされている方なら既にご存じの通り、両者の答えはどちらも正解であるが不変の真理ではない。目的やシチュエーションによって求められる『デザイン』の意味合いは180°変わってくる。
私の経歴でいうと自動車部品の設計は前者の『装飾を廃して機能を形にしたもの』であり、ジュエラー(宝飾業)は『装飾そのもの』である。両極端を経験したある意味珍しい経歴なのかもしれない。さらにやや乱暴に分類すると、私が大学で学んだ工業デザインは両者の中間に位置するものと言えるだろう。
花形装飾活字も機能(紙面を隔てる線としての機能と、版の組み合わせやコピー&ペーストによる生産性という機能)と、装飾性の両方を狙って作られたものであり、オリジナルが作られた時代には工業デザイン的なアプローチで企画されたものではないだろうか。

私が花形装飾活字に興味を持ったのは、宝飾の勉強を始めて、ジュエラーとして独立するために名刺やノベルティを作ろうと思ったときである。
ややアンティークな雰囲気を醸しつつも、装飾過多になり過ぎないイメージで考えていたところで花形装飾活字と出会った。
これが自分の求めているイメージだと思い、早速、不得手なイラストレーターを立ち上げて、それと似たようなものを書いてみるが、どこか味気が無く雰囲気が違う。
そんな違和感を持ちつつも花形装飾活字について調べていくうちにfengfeeldesign様の“花形装飾活字を愛でる”の記事を見つけ、そのなかで掲載されている拡大表示された花形装飾活字の図を見たことで、その違和感の正体が一瞬で判明した。それは『ゆらぎ』の有無である。
『ゆらぎ』というのは私の宝飾の師匠の言葉であって、それを指す一般的な表現かどうかは判りかねるが、一見して均一で整然として見えるものの中の、わずかな不均一性やバラつき感、ランダム性、不完全性のようなものである。
不思議な事に、人間はその『ゆらぎ』に美しさを感じるのである。明確な理由は不明だが、自然界がそのようにできているから、その一員である人間もそれを心地よく、美しく感じるのだろうという話もある。葉っぱの形は同じ木のものであれば全て同じに見えるが、一枚一枚が微妙に異なる。『貝合わせ』で知られるように蛤の貝殻は他の個体とピッタリ合わせることが出来ない。
花形装飾活字で言うならば、一見して左右対称に見えるが、実際はごく僅かに非対称であるとか、一定の線幅の曲線に見えても実際は一定幅ではないとか、単純なRに見える部分も解析すると物凄く複雑なRの組み合わせになっているという具合である。
それらがどこまで意図されたものかは私には分からないが、人の手により図案を描き、人の手により版が彫られるが故に産まれてくる部分も少なからずあると思う。それらが産み出す『ゆらぎ』。
これをイラストレーターのデジタルデータに置き換えた時、途方も無い数のアンカーポイントになることは容易に想像がつく。

これは自動車のエクステリアデザインにおいても同じ事が言える。これは個人的な感想だが、新しい車には『ゆらぎ』を感じることはほとんど無い。古い車でも不完全性と言うほどの大きな『ゆらぎ』があるわけではないが、やはり雰囲気が違う。定義の曖昧な『ゆらぎ』というものの存在を、更に曖昧な雰囲気などと表現するのは誠に恐縮な話だが、何かが違うのである。
昔も今もデザイナーが手描きで描いたスケッチを基にデザインするのは同じだが、模型やクレイモデルを作り、立体で形状を確認した後、デジタルデータに置き換える。私は外装のデータは扱ったことが無いので確実な事は言えないが、おそらくデジタルデータに置き換える際にかなりの単純化と間引きが行われていると考えられる。
これには理由が色々あって、一つは設計変更の容易さが挙げられる。自動車は無数の部品がせめぎあって作られている製品であり、開発中に部分的な形状の変更が日常的に頻発する。一つの部品が設計変更で形状が変わった場合、隣接する部品もそれに対応した形に変更しなくてはならない。私が携わった分野ではなるべくシンプルな構成で変更に対応でき、尚且つ軽量な管理しやすいデータが求められた。
二つ目は生産性である。もちろん古い車でも生産性は求められていたとは思うが、今はより細かくシミュレートできる分、最適解に近いものが求められるようになり、より厳しくコスト管理されるようになったと考えられる。これによりコスト削減のためにデザインが生産しやすい形へデフォルメされる事もある。車自体がより大衆的で低価格なものになり薄利多売になったこと、更に消費サイクルとモデルチェンジのサイクルが早くなったことも生産性がより求められる要因の一つだろう。
三つ目は法規が整備されたことによる制約。これによりデザイナーの意向をデフォルメせざるを得ない状況も考えられる。
自動車のデザインは三次元であるため、何らかの制約により形状が受ける影響や、変更の際の手間は二次元と比べ膨大である。
これらの要因により形状の単純化が行われていると考えられる。

古い車は木型や治具で鉄板を叩き出して生産していたと聞く。現代の車作りとは異なり、デジタルデータへの置き換えが無い、昔の車の製法では例え二次元の設計図をシンプルなRで書いたとしても、木型を作り鉄板をたたき出して立体にしたときは設計図に書ききれない方向で複雑なRが形成される。水平・垂直方向の断面図上だけでは表現しきれないのである。しかし図面に書かずとも鉄板の張力が自然で複雑なカーブを描き、『ゆらぎ』のあるかたちとなるのだろう。

最近話題の本でクリス・アンダーソン著『MAKERS』というものがある。内容の一部を簡単に紹介すると、3DCADやNC旋盤、3Dプリンタ等の機器が低価格化したことと、オープンソースによる情報共有とSNSを使った技術交流が活発化することによって、製造業のあり方が大きく変わるというものである。具体的には今まで大規模なメーカーにしか生産する事のできなかったものが個人レベルでも実現可能な日が近く(一部では既に実現している)、それによりある種の産業革命が起こると予測している本である。

ジュエリー業界でも一部でCADによるデザインは台頭してきている。ジュエリー専用のCADソフトも存在し、大手のジュエリーメーカーの中でもCADを使って製品を作っている所は増えていると聞く。
しかし完全にCADが手作りに取って代わる事は当分の間、無いと考えられる。
なぜなら、得手不得手が人間にもCADにも存在するからである。
理論上、CADで再現できない形は無いと言っても過言ではない。しかし、これまで例を挙げてきたようにCADやイラストレーター等の形状を数値で管理するツールで『ゆらぎ』を表現するには膨大な労力がかかる。その一方で直線や一定R、一定厚の平面は得意中の得意である。
CADの得意分野である直線や平面、平行、左右対称は誤魔化しの利かない形状であり、人間にとっては最も難しい部分である。職人技と言うものは熟練すればするほど、機械に近づいていくものであると師匠から聞いた。コンピュータが無い時代は、『ゆらぎ』を可能な限り除いた形を理想としていたが、今では『ゆらぎ』を手作りの証として、故意に残す事すらあるという。それは時にロウ付けの跡であったり、時に手道具による加工跡であったりといった具合だ。
宝飾業界で更に例を挙げると、『ゆらぎ』は天然のものである宝石にも存在する。どんなに高価な宝石にも欠点があると言われている。欠点とはインクルージョンとよばれる内包物であったり、傷や色むらなどの事である。原石からカットする際に、どうすれば最も美しく価値のある宝石に仕上がるかを考えてカットする。重さ(カラット)を失っても欠点の部分を取り除くべきか、サイズを活かして最小限のカットとすべきか。
それゆえに同じサイズに見える宝石を並べたジュエリーのデザインは難しい。カットが同じで、色合いと形が類似した宝石をそろえるのは大前提だが、それでも宝石と言うものは不均一でサイズや形にばらつきがあるため、職人は宝石の並べ順や間隔を調整し、完成したときに違和感の無いようにセッティングする。計測するとばらつきが分かるが、素人が目で見ただけでは分からず、ただ美しく見える。人の目で見たときに美しく感じるように作るというのはデジタルツールで自動的に等間隔に並べるだけでは難しい。
グラフィックデザイン関係の方々にとっての、字詰めをイメージしていただければ近い感覚なのかもしれない。

花形装飾活字からは少々脱線した話が中心になってしまったが、私なりに花形装飾活字について、その美しさの一端を担っていると考えられる『ゆらぎ』という存在から展開した。
ある程度の規則性の繰り返しの中にあって、完全に均質ではない事によるバランスのとれた美しさ。デザインとしての分野は違えども、『ゆらぎ』との付き合い方を通して、美しさに関する共通認識があるのかもしれないと、今回の花形装飾活字との出会いにより気づく事ができた。



文章系同人誌製作における花形装飾活字とデザインの可能性

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文:織月
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 私は所謂二次創作活動を行なっている、ある意味では印刷にはとても近い立場の人間です。そして薄くてお高いスマート本と称される、所謂二次創作同人誌を製作しております。
 現在マスメディアで取り上げられる事が多い同人誌は、コミックやイラストの物ば かりという認識の方が多いかも知れません。しかしそれ程取り上げられる事はなくとも文章主体の同人誌は存在します。そしてその際ネックになるのが、どうすれば手に取って貰える装丁にするかという事です。
 表紙を絵描きの方にお願いするのは勿論の事、他にはフリー素材を利用して自分なりのデザインを創意工夫する事が大半です。しかしそれだけでは解決しないというのも事実です。
 となると、何処にリソースを傾けるかという話に行き着きます。つまり、本文の装丁を試行錯誤する方向になる訳です。

「ただ文章書いて適当にWordのテンプレートで編集すりゃ良いんでしょ?」
 こういう読み手の何と多い事か! そんな訳はありません。
 内容に合わせてどのフォントを使おうか、段組はどうしようか、どれ位の大きさの 文字なら読みやすくなるだろうか、サイズを大きくして文字の大きさを小さくして一 行辺りの文字数を増やして行間を詰め込んでページ数を節約すべきかエトセトラエト セトラ……。単純に文字を流し込むだけでは済まないです。
 特にWord使用の編集は、縦書の場合思わぬ所に伏兵が居たりします。文字間隔を調 節すると、変な場所にスペースが入ってしまったり、改行しなくてもいい文字数なの に改行されてしまいます。
 更に言えば、大半の同人誌印刷所はWordファイルでの入稿は推奨されていません。 自力でWordドキュメントをPDFに出力してどの印刷所でも印刷可能なPSDに変換する か、縦書版下が作成出来るInDesignやエディカラーを導入する必要があります。短文 ならばIllustratorでアウトライン化した版下にする人も居たりします。更に自力で PDF出力をしても、PSD化をする際に切り抜き&コピペで、思わぬ場所に入ってしまい 字間調節では制御出来ない文字ズレやスペースを修正しなければいけません。

 確かにある程度出来上がったテンプレートに流しこむのは楽ですよ? 特にWordは Windowsならば標準プリインストールアプリである事もあって、印刷所が予め用意し たテンプレート集があります。
 しかしそれでは手に取って下さった方を惹き付けるにはまだ力が弱い。シンプル・ イズ・ベストという選択もありますが、それだけなのも物寂しい。商業印刷に近付け るのも一つの手ではあっても、やはりデザインで自由に遊んでみたい。
 そういった願望を叶えてくれるのが自費出版の醍醐味ですから。その分自分で全て 原稿を版下に加工しなければいけませんが、それもまた楽しいもの。
 パッと思い付く限り、その加工時に利用するのはデザインブラシやデザインフォン トの方が多いと思います。しかし流行りのフォントやブラシという物もあり、これは と思う物が中々無いというのも悩みです。派手に装飾したい訳ではないですが、それ でも自分らしい存在感がある装丁にしたいのです。
 それを全て叶えてくれそうという希望を、私は花形装飾活字に感じました。

「何処が?」と尋ねられたら、一言では言い表せません。
 例えば「花形装飾活字を愛でる その3」に取り上げられている花形装飾活字は、 機種依存文字の†<ダガー>を思わせるフォルムでありながら、フランス王家の紋章 であるフルール・ド・リスの様な丸みを帯びた装飾が施されています。阪口氏は記事の中で、釘付けの様で何処か攻撃的な槍や矢の様だ、と評されています。確かに細身 でシンプルなフォルムなので、より鋭さが目立つのでしょう。
 しかしこうも評されています。美術的な要素として捉えられリスペクトの元で、 イラスト等に使われている場合もあり、 これも勿論リバイバルと言えるし時代性に 合わせた使い方である。しかし単に装飾として捉えた場合に、 その物足りなさは目 に余る物があるが、当時の活字印刷の限界、単色印刷としての限界の袖を踏まえて考えると、どうしても美術的な美しさに目がいく、と。
 仰る通りです。本当にこの記事で取り上げられている花形装飾活字はシンプル。でも私はそこに少しだけ、付け加えさせて頂きたいのです。その鋭さは、小説等の 媒体では場面切り替えの役割にしっくりするのではないかな、と。
 商業媒体での場面切り替えは、●だったり、◆や◇や*を使う事が多いです。それ どころか単に二、三行だけ空けている事もあります。確かに場面が切り替わってるの だなというのは判りますが、使い方に因ってはかなり味気無いと思うのです。  例えば、ロマンスがたっぷりと詰め込まれた恋愛小説。*が使用されていると、花 を表しているのかなと思わなくもないですが、でもそれをつらつらと並べているだけ で内容と同じ様にその華やかさが想像出来るかと考えたら、やはり少し華やかさが足 りないと感じる事が多いのです。それだけに現在が舞台ならともかくとして、中世や ファンタジー的な舞台の場合、それらしい雰囲気を出している装飾活字を使用しても 良いのではないか、と。
 剣や魔法の世界観を持っている作品ならば、アンティーク的な雰囲気を持ったこの 記事で取り上げられている花形装飾活字の鋭さは、世界観を元にモチーフとしても ピッタリだと思います。そして長剣の様だと評される「花形装飾活字を愛でる その 6、その9」で取り上げられている花形装飾活字もまた、同様に場面転換の装飾とし てピッタリだと言える気がするのです。

 章タイトルをそれぞれ装飾するにしても、色々と雰囲気を持ち合わせる事が出来る パターンが考えられると思います。
 商業媒体では大半が章タイトルのみフォントを変える事が大半です。しかしその部 分に関しても、「でも……他に何かより良く出来る事は無いの?」というジレンマが 生じます。
 そんな時、この花形装飾活字なら単にフォントを変える以外の、完成された素材の 枠に章タイトルを入れる様な、画像としての装丁をしなくても良いのではないかと思 いました。一つの文字として組み合わせて、本文内での場面切り替え部分との脳内で のイメージでの大きな齟齬が避けられる気がしたのです。
 本文との統一デザインとしてまずテンプレートを作った後、1ページを丸々使って タイトルと目次を入れ、レストランのメニューの様な効果を出す事も出来れば、ペー ジの頭に小さく枠に見える様に花形装飾活字を配置し、その中に章タイトルを入れる 事も可能だと思いました。ページノンブルの横に配置しても良いかも知れません。ま た「花形装飾活字を愛でる その21、その47」の様に枠を作り、その中に粗筋を 纏めてしまえば、手に取って下さった読み手の方にもアピール出来る物になるでしょ う。更に本文を入れるスペースを少し小さくして、周囲に変形飾り枠として使用する 等の使い方は、市販やフリー素材では一つの完全体として出来上がっている為中々使 いにくい配置でも、この花形装飾活字では一つ一つの文字として成り立っているから こそ使い易くなるのではないか、と。

 私は、それぞれが文字として小さなそれぞれのパーツを自分の感性で配置出来る上 に、配置次第で自分の作品をアピール出来るこの花形装飾活字は、自分で版下を作成する文章系同人誌製作から見れば、とても大きな力強い存在だと感じました。
 美的センスが心許ないという理由で版下作成時に萎縮してしまう作り手は、少なからず存在します。その理由は様々ですが、大きな一つの素材として成り立っている装 飾素材が余りにも多い事と、シンプルで控えめだけれど華やかな存在感が欲しいという需要と一致しない事が大きいと思うのです。
 無論、私も独学ではありますが、ある程度の版下のデザインは自力でします。しかし文章がメインなのに、何故かデザインの方が目立ってしまう素材という物がとても 多く、結局テンプレートを改造して可も無く不可も無くという、汎用的な少し物寂しい版下になる事が多いです。
 だからこそこの花形装飾活字は、その寂しさを埋めるだけでなく、存在を主張し過 ぎず文章を惹き立ててくれる、同人誌製作における文章装丁の一つの可能性を秘めた 存在であるという事を述べる事で、この文章を締めさせて頂きたいと思います。





「印刷とデザインを考える」

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グラフィックデザイナー 梶川遥
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 デザインって一体なんだろうか。 その定義はなんだろうか。 「情報を可視化する事だ」という人もいれば、「仕組みをつくる事だ」という人もいる。解釈は人それぞれだし、状況や関わり方によっても変わる。 「印刷とデザイン」をテーマに文章を書き起こすとして、ここでは仮に、「デザインする」という行為が「案をだし、制作したものを印刷して紙にのせ、それが人の手に渡り、どんな反応に繋げるかまで考える事」を指すと定義しようと思う。

 そう定義した時に、私がこの事を意識するきっかけになった作品がある。 大学3年生の時に制作した、真っ白な本だ。 全100ページの、全てメジウムインクで刷られた本。 当時、ほとんど美術の勉強をしないまま大学に入学した私は、「自分にはセンスもないし、デザイナーなんて向いていないのかも」という劣等感を抱えていた。 美大特有の課題に追われる日々だったが、いつも作る物に悔しさを残していた。 それから抜け出したくて、自分のやりたい事、得意な事を見つけたくて、たくさんのアートプロジェクトに参加したし、パペットアニメーションの制作に携わらせてもらったりもした。ねぶたも作った。 イエスマンであろうと、声をかけられれば引き受けたし、少しでも興味が湧いたら制作に携わらせてもらっていた。 その中の一環で、他の人にはない技術を得ようと、個人的にシルクスクリーンを学んだりもしていた。掴みだけ、スクーリングと言う、外部向けに公開している講座に申し込んで学び、あとはひたすら印刷工房に通い詰め、一日中シルクを刷った。独学に近く、おそらく変な刷り方もしていたが、最終的には、シルクの事ならこの子に聞けば…と相談を受ける位には刷れる様になった。

 常々、なんとかしてその技術を活かせないかと考えていたところに、「ワンコンセプトブックを作る」という課題が舞い込んできたのだ。 そこで、シルクスクリーンならではの印刷表現で、本を制作することにした。 メジウムインクと言う、透明なインクで、本来はインクに混ぜてインクの透明度をあげたり、金粉や銀粉などの固形物と合わせて使ったりするインク。 このインクで真っ白な本のページ全面に余す所なく手形を印刷した。それがページをめくるごとに、少しずつ減っていく。本当に少しずつ、少しずつ、100ページをかけて減っていき、最後にたった1つの手形を残して終わる。 確かに印刷がされているのに、余すところなくページ全面に印刷されている為、手に取る人たちはそれが印刷だと気づかない。紙だと認識するのだ。でも、ページをめくり、印刷範囲が減る事で、紙が見え始めると、その変化を意識する。そして、ある時にふと気づく。「これは、一面に何かが印刷されているんだ」と。 そこからは確認作業の様に、ページをめくり、印刷された物がなにかをおっていく。何度も何度も本を傾けたり、ページを行ったり来たりしながら。 脳は、不思議な事に、確かに視界に捉えているのに、意識する事が出来ないと見る事が出来ないのだ。人の視覚認識が、いかにてきとうなものか実感した。 その事が凄く面白いと感じ、いわゆるそのアハ体験を形にした。 余談だが、見えないのに確かに存在している「指紋」が、「メジウムインクでの印刷」とリンクしたから採用したとはいえ、手形だらけの本は、今考えるとホラー映画さながら、気持ち悪い本だとは思う。 この作品によって、インクが紙にのった時の事、人の手に渡った時の事を強く意識する様になった。おそらくこれが認識されやすい印刷ならば、加工ならば、紙の種類や表現の仕方が違ったならば、全然違う作品になっていたと思うし、狙いは成功しなかったと思う。 当時は、イラストから文章から、印刷から、写真の撮影、時には製本までを全て自分で行っていたこともあり、この作品制作からは、印刷する紙の事、印刷の手法、あがりの状態も、同様に意識していくようになった。 まだ、「受け取った人にどうしてもらいたい」や「誰の為に作り、何を伝え、どうしていきたいのか」については、この時点では考えが浅かったとも思う。

 デザイン会社に就職し、デザイナーとして働く様になって、デザインにおける印刷の重要性をこれまで以上に意識する様になった。 幸か不幸か、新人の頃から企画、デザイン、入稿、納品までを行っていたため、ある程度してからは、印刷所の指定から提案する事が出来るようになった。 予算の事もあり、なかなか実際にお願い出来る事は少なかった。 それでも、日常的に調べていれば、知識があれば、いざチャンスがきた時に提案が出来る。 そう考えた。 同時に、クライアントについて、考える事が増えていった。私は、この業界のあり方までは考えられていない。それでも、「依頼主の悩みや思い、狙いを形にするためにはどんな方法が良いのか」「数年後、どうあって欲しいのか、その為には自分には今何が出来るか」を意識しないといけないと考える様にもなった。 学生時代のデザインへの取り組み方と比べて、大きく変化したのがこの部分だと思う。 クライアントの代わりに、狙いを形にする。 デザイナーはクライアントの代わりに制作をするのだと思う。 デザイナーは黒子だという人もいる。まさにだと思う。それでも、個性は出てしまう。 でも、そんなデザイナーを名乗る私は、印刷や加工について、実はそんなに知識がないのが現状であったりする。恥かしながら、勉強すればする程、その事を痛感した。 シルクスクリーン印刷や銅版は、自分がやっていたので、どんなデータを起こせばよいか、製版の仕方からどんな印刷表現が出来るかなどなんとなくは理解していた。 だが、日常的に1番使っていた、オフセット印刷の仕組みを知らなかった。印刷所に入稿した後、具体的にどんな流れを経て納品されるのか、見た事がなかった。 どんな印刷表現の可能性があるのか、どうすれば失敗が起きにくいデータになるのか、きちんと理解していない事を痛感した。

 デザイナーになって、2年目にしてようやく初めて、ハイデルベルクの10色機を見た。 箔押しが実際にどんな機械で、どんな風に加工されているのか、初めて見て、知った。 印刷や加工をお願いするばかりで、その実どんな風に、どれ位の人が関わって、どんな工程を経て印刷、納品されるのか知らなかった。 全然知識が足りない。経験もまだまだ足りない。もちろん、そうじゃないデザイナーもたくさんいる。 自分がとても恥ずかしくなったりした。印刷によって、加工によって、再現性や紙の選び方によって、どれだけクライアントの狙いを形にしたところで、失敗する事がある。それをしない為、少しでも、良いものに仕上げる為、デザイナーを名乗る以上、印刷や加工の事を知らなければならないと感じた。 昔ならば、製版屋さんにお願いし、専門の方々がやっていた事を、現代ではデザイナーが行ったりする。DTPの登場で、誰もがデザイナーを名乗れる様になった反面、デザイナーが学ばなければならない領域も増えたのだと思う。でも、恐ろしい事に、知識がなくても、物が作れてしまう時代でもあるのだ。 私も、誰もが名乗れるデザイナーの1人に過ぎない。 それでもやっぱり、デザイナーを名乗る以上は、最低限の知識は身につけたいと切に思う。

 もっと自分に引きつけて考えると、印刷や加工について、きちんと知識をつけなければ、提案の幅も狭まり、本当はもっとマストなやり方があるにも関わらず気づけない様に思う。コストも、方法を変えればもっと抑えることも出来るかもしれない。 同様に、印刷をお願いする際に、それにかかる労力や、技術力、尊ぶべき点も認識する様になり、無茶な金額提示、納期提示をしなくなるとも思う。 実際に、印刷所や加工会社に連絡をして工場見学をお願いし、現場を知り、知識をもらう中でたくさんの可能性が広がったと思う。 一般的には多く知られていない、紙の特性や、印刷方法を知った。 新たに様々な技法が生み出されている事も知った。 知識は更新し続けないといけないと感じた。 だが、これは逆を言えば、知識を深める事によって、技術や現場を知る事によって、もっともっとデザインの可能性が広げられると言う事だと思う。 これは、グラフィックデザインにフォーカスを当てて考えている為、他の分野ではまた違うとは思う。

 私が今後もグラフィックデザイナーを名乗る以上、紙ものをデザインしていく以上は、最低限印刷の知識や経験を身につけなければならないと感じた。 なぜなら、印刷はデザインする行為の中の切っても切り離せない一部であり、デザイナーはデザインに向き合う人だと思うから。 私にはたかだか数年の知識と経験しかない。 もちろん、数年後にはまた違った見え方、感じ方をしているかもしれない。 何を勘違いしているんだ、と笑われてしまうかもしれない。 それでも、その都度向き合っていきたいと思う。

 あくまでも今の時点の私の見解ではあるが、私は「印刷とデザイン」についてこのように考える。 これから、もっともっと向きあっていきたいと思う。









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