花形装飾活字を愛でる その75

はてさて。 なんか否定論ばかりになってしまいました。 そういうのんばっかり書いてても仕方ないですね。 1つの方向としては、 ミニマムに進むのが手っ取り早いと思います。 中島英樹もなんかのインタビューで書いてますが、 経済を後押しされたグラフィックデザインを良しとする、 もしくは、評価される事にある一定の温度差を感じるらしい。 うん。まったくの同意です。 だからといって、 経済とグラフィックデザインを完全に切り離して考えるのも違う気がするし、 個人的には1つの指標としては絶対に必要なシーンだとも考えています。 そこにタッチしないのはリアルタイムが感じられなくなるし、 そうなると、 グラフィックデザイナーとしては終わりだと思う。 画家であるってなら(現代アートはちょっと事情が違う?)別ですが。 これについては中島英樹も同じような事をインタビューに答えていたように記憶しています。 もし、 付け加えるなら、 グラフィックデザインとは手段であり、 その手段を経済という名の社会が利用するのに最適だったという事でしょうか。 あのバウハウスに則って言うなら、 美術、芸術の技術が社会との繋がりを促す為の手段がデザインなのでしょう。 その中でミニマムで進むのが手っ取り早いというのが答えなのです。 グラフィックデザインが自発的であり続けるのは難しいと考えられます。 一定の条件では可能な気がしますが、 それを永続するというのには疑問があります。 グラフィックデザインは素は印刷にある事を考えると、 前回に書いたとおり、 グラフィックデザインの技能は「搾取」する事にあります。 という事は、 グラフィックデザインの肝は技ではなく「知」という事にもなるのです。 いかに知っているかがグラフィックデザイナーである事の、 最大の条件であるように思います。 コップと皿の例は良く聞くし、 このログにも何回も出てますが、 それさえもやはり、 認識であり「知」である事は間違いなさそうです。 そこに「要素」というのが潜り込む事で、 グラフィックデザイン、もしくはデザインが成立しちゃうのは、 別の話なので置いといて、 グラフィックデザイナーは知らない事を恥ずべくです。 知る行為をあるコンプレックスの塊ような、 画家が絵を描くのを日常にするように、 グラフィックデザイナーは無意識でいる日常を恥じなければなりません。 と、 またまた脱線するので、 そういう経緯において「花形装飾活字」があった訳です。 んでミニマム。 ギターを1本作るのに、 畳6枚くらいの木版が必要で、 1本をマジで作ろうと思ったら2年の作業だぜって教えられて、 今じゃ大量生産になっちゃって、 生涯の1本に出会うなんて楽器屋が無くなったなあというのを話ながら、 そういえば現在の日本で箪笥の肥しになってるギターって何本あるんやろう的な流れになって、 あのギブソンが日本には3000本は肥しになってるんじゃないだろうかとか。 実は日本で一番弾かれてるのはモリスなんじゃないの?とか。 いやいや、実はモリスも捨てたもんじゃないが、 マーティンの凄さに愕然(値段にも…)とするだけでとか、 フェンダージャパンの仕上げの甘さにビビッタりとか。 なんだかんだいって、 ろくに弾けもせずに、 美術的骨董価値で飾ってるやつらが一番悪だぜってなもんで、 その影で世の中学生やら高校生は安価な音の出ない弾きにくいギターで我慢してるんだぜという流れで、 結局は、それはなんでかっていうと、 カルチャーとして根付いてないもんやから、 売ったらそこまでよ主義というか、 買ったもののメンテとかリペアとか改造とか、 結局は1つのシーンにしか渡せないジレンマがあって、 自分のわからないところで作業されてて、 買う前の事とか、 任した後の事とか、 そういうのがどうもわからないで当然みたいな。 だから名前とかブランドとかで信用するしかなくって、 いつの間にかそういう事になっちゃってたんだろうなあという話。 ボクも、 今の会話をしてた人と会う時までは実際そうやったしね。 そういうのがバックグラウンドが身近にあって知ってる人やからこそ、 ものを愛する事が出来るのだと思うのですよ。 単にポンと出てきて完成だけを知っていて、 その他は任せてしまったところで、 生涯の一本のギターとは言えないわけです。 実は、 この話は脱線してません。 次こそは花形装飾活字が出てきます。きっと。









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