花形装飾活字を愛でる その83

活字におけるデザインの限界点、 すなわち花形装飾活字の限界点でもあると言えると思います。 残念ながら、 コンピュータを使用した現在でも、 その伝達は活字に依存しています。 最近ではtomatoなんてデザインチーム(そうチーム向こうはチームでデザインが出来てていいよね)が実験と銘打ってなんかいろいろやってますし、 特にヨーロッパの方ではやはりデザインの発祥という事もあって、 グラフィックデザインに対する実験が実践とともに(ていうか日本は心がせまい) いろいろやられてるみたいですが、 あ、あくまで日本で手に入る情報です。 なんかスゲーのんがあるぜ!ていうのが是非教えて欲しいです。 でね、 まだまだ活字のかっこよさの魅力に打ちのめされてるって訳です。 まだまだ使いこなせていないし、 時代が変われば人が変わればその使いようも変わってくる。 そのおかげで限界点を気にする事なく活字を使えているのだと思います。 考えなければいけないのは「方法」にはかならず限界と欠点があるという事です。 万能な「方法」なんてないんです! 目を覚まさないとダメなんです!。 ただ、 その趣向における人間の興味のまま、 永遠に続くパズルのように、 しかもその完成は未完成でも、 ある種の快感を得る事が出来ます。 だからこそ活字は利用され続けているし無くならないのだと思います。 なんとも便利です。 こんなにも便利な幻想が今まであったでしょうか。 しかもそれを紙に刷るなんて! 現在ではコンピュータにも表示されて! その利用はテクノロジー、 さっきも書きましたが時代や人が変わる事で、 その限界線は変化し続けています。 同時に花形装飾活字は装飾ではありますが、 活字の1つだと考えます。 変化し続ける活字の利用とともに、 その装飾の存在はあるはずでした。 が、 現在では廃れています。 その装飾性のみが重んじられたせいで、 1800年代の後半頃から、 写真や、それに伴う印刷技術の変貌の波に押されて使われなくなりました(徐々に)。 コンピュータ以後のデザインの世界では、 回顧的な要素として使われる場合はあるものの、 その使用は限定的で実践で中心で、 という訳にはいかないようなのです。 残念なのは、 その整理性にこそある活字の美学が置いてけぼりにされ、 画面のイメージに注釈してしまっている事です。 写真の伝達能力、イラストの伝達能力は、 言葉ではない新しい快感なのは否定のしどころでは無いのはわかるのですが、 というのは時間が来てしまったので次回に続く。









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