花形装飾活字を愛でる その159

もし、文字が図案なら、図案が文字なら、それを隔てるイメージとは何か。 何が花形装飾活字と文字としての活字を分けているのか。 何故、人は「木」の図案を「木」と認識し、文字の「木」を木としているのか。 それはどちらか片方では可能か。 図案というイメージ、文字というイメージ、 それらを構築している根本とは何か。 視覚か、視覚に通じる感覚の何が作用してそうさせているのか。 今、図案と文字の決定的な違いを見出す事が出来なくなっています。 それは花形装飾活字と文字としての活字の隔てる線のようなもの。 そしてこの記事の最初の疑問に戻ります。 水草はそもそも日本語に合うように開発した花形装飾活字です。 考えなければいけないのは、 何故それは文字として認識されないのか、という事。 もしくは文字という認識の中で水草の存在は虚ろで流動しすぎているのか。 1つ、はっきりさせたいのは、 図案と文字の距離のようなものです。 隣り合わせの存在か、 もしくはかけ離れた場所にあるのか。 結局歴史的な認識の上乗せを繰り返している事の気付きは、 耐え難い絶望を与えています。 水草が伝えてくれるもの。 人が変化を与えた途上のようなものが文字なのだとしたら次はなんだ。 文字で伝えられないから図案で伝えるのか、 それとも図案で伝えられないから文字があるのか。 少なくとも、これだけは言える。 水草は文字とともにあるし同時に図案としても留めている。 実は文字という快感にただ溺れているだけなんじゃないかという事。 それはグラフィックデザインを解き明かす鍵であるとともに、 その軸を担うのが花形装飾活字であると言い切れるような気がします。 そして水草の存在もまた真意に近い。 自分で生んでおいて、 その正体をまだ掴めていませんすいません。 ですが、 今は言葉に出来ていないというだけで、 感覚としては持っています。 言える事があるとすれば設計をした段階で得られた快感は、 もしかしたら文字が組み合わさる快感に近いのかもしれないという事。 なによりも図案も文字も愛しています。 それがグラフィックデザインされる事も含めて。









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