花形装飾活字を愛でる その160

では、水草は文字だったのでしょうか。 花形装飾活字を作るという作業そのものは、 文字を作るという粗案のようなものではという事を前回に書きました。 その答えは友禅に連なる工芸や琳派が追い求めた、 風景や情景の記号化の作業にこそあるように思います。 風景や情景を記号化するという作業は、 これは漢字の根本に近い。 漢字の「桜」という文字から連想されるものと、 図案として記号化された「桜」の2つが齎されるイメージは両方とも同じである。 にも関わらず、 それらが文字と図案の2つに分かれる現象というのは、 どのように説明をすればいいのか。 意図や用途の違いはあったとしても、 それをイメージとして抱く階層は同じであるはず。 イメージの根本としている記憶装置の最初と、 それを基にした図案の作成は同じところにあるように思うのです。 つまり図案と文字が内包している芯のようなものは、 人が抱くイメージに左右される。 という事は「桜」というイメージに対する共有部分として、 文化圏が変われば文字が変わり図案も変わるというのは、 極々自然な出来事と考えてもいいのではないでしょうか。 1つの答えとして、 「距離」と「広さ」を提示します。 言語や文字、図案の違いというのは単純に距離が離れている事と、 目に見えるものの風景や情景にこそあるのだという結論です。 では、戻って、水草は文字だったのか。 結論としては「いいえ」です。 正しくは「はい」かもしれない。 もう一度、 文字と図案という概念を取っ払って、 1つの内包された「イメージ」に戻らなくてはなりません。 これは「文字」ではないし「図案」ではないんです。 結局は「イメージ」そのものを構築する事でしか、 日本で使われている、 「仮名」や「漢字」に見合う図案は成す事は出来なかったんです。 もしくは要素の近さとしては、 これは非常に「仮名」に近い在り方であるというのは、 最近の仮名書体開発の余波として、 感じずにはいられません。 ただ、先の記事に書いてありましたが、 その上で、もちろんイメージの深度の違いはある訳です。 ででで、 繋がったと感じた事があったのですが、 これってつまり、 用途としての花形装飾活字ではなく、 装飾的な要素を含み始めた流れになった事に共通しているのではと思ったんです。 だいーぶ前に書いた事なんですが、 花形装飾活字の衰退(勝手な偏見です)は、 印刷技術の向上と写真の印刷への利用の広がりが原因だと考えていて、 なんか繋がってませんか?これ。 やっと西洋の文字と図案の関係と、 日本での文字と図案の関係の共通を見出せたような気がします。 時間が無くなったので次回に続く。









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