花形装飾活字を愛でる その161

つまり、共有の広さそのものが、 イメージを希釈するような状況を作り出したと考えられるのです。 10人で使っていたものを、 10000人が使うようになる時の気薄さのような現象は、 文字や図案に言える共通項ではないでしょうか。 わかりますでしょうか。 花形装飾活字と文字とのイメージの心地の良い関係とは、 それぞれの希釈率、 すなわち濃度にこそあったのではないでしょうか。 そこには目的や事情、状況、意識的なもの無意識的なものが、 いろいろあるんだろうけど、 全ての現象を組み合わせた広まりが「イメージ」に変換され、 文字や花形装飾活字に変化したと言っていいと思います。 という事は、 写真や印刷技術の発展による、 花形装飾活字の衰退と文字の変化は、 少し事情が違うような気がしてて、 この違いというのは、 最近の表層だけ掬い取るような、 「最先端の押し売り」現象に繋がってくるんじゃないかなとも。 花形装飾活字のデータが書籍等で売られるようになったけど、 それを買う人って結局は装飾的な何かのエッセンスだけが欲しくて、 買う場合が多いような気がするんですね。 もちろん、 ボクが配布してるやつもその目的で欲しいと感じての方もいらっしゃるだろうし、 否定はしないんだけど、 忘れてはいけないのは、 その美しさというのは文化圏があってこその美しさでもあるし、 こと「花形装飾活字」に話を狭めるなら、 活版という在り方に潜む美意識を追求した結果の、 1つの完成形でしかない事を知っておかなきゃなんない訳ですよ。 花形装飾活字の身の丈というか、 それを伝える為にこの文章を書いてる訳だしね。 何回も書いてるけど、 これは花形装飾活字だから美しいのであって、 もし純粋的に美しさを追い求めるなら、 こんな劣化的な美しさじゃなくって、 装飾そのものを追求した方がいいんですよ。 その側面とともに、 少し事情の違う一線があったであろう、 イメージの変化は、 やはり写真と印刷技術の向上にあったのだと繰り返し書かせてください。 まず、 写真の登場は人が抱くイメージの在り方を相当変えたし、 印刷技術の向上は、 活版の価値をどん底まで突き落とした。 その中で花形装飾活字の活路は無かったし、 文字はその利用に変化せざるえなかった。 で、 ここでイメージです。 じゃ、今何が残されているのかという疑問が生じる訳です。 だって、おかしい。 僕たちは文字を文字と認識し、 図案を図案として認識している。 何が言いたいかというと、 根本はもっとイメージだったんじゃないかって事。 例えば仮名なんかは、 表音って事になってるけど、 これは漢字に対して日本の音を当てたっていう理屈なだけで、 その実はもっとダイレクトに見た目以上に、 前回も書いたけど音が鳴っていたんじゃないかな。 読むというより聞くという発想。 だとすればですよ。 日本の美とは、 音から全てを連想しイメージとして内包してたんじゃないかって事。 見えないものとか情景に美だとか理屈が成り立つような気がしてます。 つまりそれが「文字」だった。 と考えてはどうでしょうか。 でででで、 そこから「水草」を見返してみるとの話は、 時間がきたのでまた今度。









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