花形装飾活字を愛でる その187



なんというか結局、装飾とはパターンでしかない。ある不合理なパターンをランダムに並べたとしても、結局は合理的なパターンに集約される。川原で拾ってきた石ころでも、それらをパターン化する事によって、装飾とする事が出来る。自分達が描いているイメージでさえも、それがオリジナリティやテイストという言葉で開放されたとしても、いずれはパターン化され図式化される。いわゆる手癖のようなもの。その現象をリアルタイムに利用しようとしたのがデザインという姿勢であり方法だったんだけど、もちろん現代も使われているし、どんどんと活用していくべき方法ではあるとは思うんだよね。でも、そもそものパターン化されるべき現象が無ければ、意味が無いという事も察しなくてはいけない。もちろん、この花形装飾活字も同じ事が言えて、いかに、装飾をパターン化して綺麗に並べたとしても、元々の現象を踏まえていないと、そのパターンが崩壊しちゃう訳です。同時にそれは花形装飾活字という危うさでもあって、古さや新しさにも関係しているかもしれない。もしかしたら、現代じゃないと使えない、もしくは、当時の人が考えもつかなかったものが得られるかもしれない。パターンでしかないが故に、それはパターンで無くなった瞬間に、定義された装飾とは言えなくなってしまう。とくに、エンスヘデのやつに関して述べれば、何を装飾のパターンとし、どの作業を活版という技術に委ねたのかというのが大きなポイントだと思うんですよね。わかりますかね…。このデータを使ってみたけど、ウマク使えないという方は耳を傾けていただければ嬉しいんだけど、1つ1つの版はパターン化された装飾なんだよね。だから単体でも凄く使えるしカッコイイんだけど、それだけだと、この花形装飾活字という思慮深さには全然、手が届いた事にならない訳で、時代や世界、活版という技術…etcの意図を汲み取りつつも、一番大切な事は「思い通り」に組まない事です。再度書きますが、これはパターン化された装飾なんだよね。もし、ウマク組みたいなら、自分の思った通りに組んじゃいけない。これは装飾という名の「知恵」であり、そこに創造は存在しない。全てがパターンで構成され、その奥深さが故に、壮大なランダムが生まれているように見えているだけ。そして、それを時間という流れの中で、リアルタイムで構成されている。つまり、全てのデザインは、この花形装飾活字が、花形装飾活字として存在した時点で全工程が終了しているって事。残念ながら、ボク達がする事なんてないし、これを使用したところで、真のオリジナリティに辿り着く事はないんです。エンスヘデのものは、なんとも憎らしくも、その完成度が恐ろしく高い。同時に世界観が設定されて、使いにくい人には圧倒的に使いにくいものになっている。それは何故なのは、もう書いたので書かないけれど、もはや、パターンの構築さえも終わってるのかもしれない。だとしたら凄い話だべ。それはデザインの領域を超えたところで定義が行なわれているという事になる。と言いつつも、ボク自身は、これにそこまでの信頼は寄せてないけれど、デザインという定義は埋まるのは確かでもあるし、言葉にするなら、「物凄く配慮されている」状態なんだと思う。ホント、勉強させられちゃうよね、先人の方が、グラフィックデザインと印刷の境界をキチンと見極めてたって事だからなあ。もっと言うと、印刷という作業にだけ、活版という技術にまで、パターン化は施さなかったからこそ、ここまでの自由が発生している。それは多分、領分が違うという理由だけでいいような気がする。









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