花形装飾活字を愛でる その190



というものを固着させるとどうなるか。それそのものの行動は装飾というパターンの構築でした。では行動の末の結果は何を生むのか。その答えを示したのが「FUJI」でした。「FUJI」は、水草は和風に変換する作業をおこなったにすぎません。その作業というのは、所謂、西洋から見た日本という視点です。そもそも和風という言葉が既に西洋からの視点なんだけどね。本当に正しいの西洋風なんて言い方が正しい訳で、今はまったく逆になっているのが現状なんじゃないかな。かつて、日本のデザインのメインストリートを逝った伝統工芸でさえも和風と称されるようになっている。という事は、それらは既にボク達のアイデンティティの中で消滅した存在なんだよね。だからこそ、ボク達は日本ぽいものを和風と呼び、西洋の最新をハイセンスに感じる。本来受け入れがたいはずの外の文化の方がめずらしいはずなのにね。不思議な話である。土壌が浮いた状態になるとどうなるのか。西洋にて日本という存在を捉えた時に、どうなるのか。その疑問を明らかにしたのがFUJIであり、その制作でした。本来の花形装飾活字に水草という存在を上乗せした訳です。するとそれが和風である言葉の正しさなような気がします。ボク達が普段口にしている和の表現や、和風なんて言葉が、どれだけ上っ面で情けない視点かを訴えたかったというのもあったような。本当は抱えておかなければいけなかったのに、何も継いでいないこの現状が、なんとも寂しく悲しいなと感じます。せっかくリミックスして独自に発展をさせてきた日本の文化を〜風だとか〜的と言うのはあまりにも表現の土台としては甘いのかなと。せっかくだから、自分達の土壌から上乗せした西洋を西洋風に作り変えるくらいの気概が欲しい。実際に明治や大正の初め頃はそれが積極的に行なわれていたわけだし。今はどうなんだろう。単に浸透しすぎて、化学変化を起こす隙間がなくなってしまったのだろうか。否、それは違うと思います。まだまだやれる事はありまくるような気がします。その一手として、このFUJIがあります。そしてボクの花形装飾活字に対する思考も、一旦の終焉を迎えました。どちらかというと、このあとの公開のデータは、残りの遣り残しを片付ける意識が強かったような。もしくは、このFUJIの完成を見て、自分の中で、かなり奥深くまで花形装飾活字の根が張り付いたと確信したとも言えるかも。そしてFUJIがなぜこんなに日本的で和風なのは、西洋の視点からというのも、結局は作るイメージの階層の問題であり、作風や、個性うんぬんよりも、とある知恵の源泉の在り方が、作るものへの影響なのだとも感じました。次やろうとしている事が、単に花形装飾活字を活用しよう、させようという活動では無い事を、これを読んで感じとって貰えたかと思います。









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