「継承と発展」

『継承と発展』
デザイナー/編集者 長田年伸(ながた・としのぶ)

何度目かの電子書籍元年を迎えた2012年だったが、ついにと言うべきか、ようやくと言うべきか、日本のamazonでも電子書籍用端末kindleが発売された。数ヶ月先行して発売されていた楽天のkoboとのシェア争いの行方がどうなるのか、コンテンツをめぐる出版界の体制がどうなるのかなど、関係者にしてみれば不安(と興奮)の局面に突入していっていることは間違いない。 もちろん、印刷業、デザイン業に携わる者も例外ではない。というよりも、おそらく著者や出版社以上に事の推移には敏感にならざるを得ないだろう。どちらも基本的には受注産業であり、クライアントからの依頼なくしては仕事が成立しないのだから当然だ。死活問題といえる。 けれでも一方でこうも思うのだ。印刷とデザインはそこまで従属的なものなのか。印刷とデザインそのものが豊かなコンテンツとして存在しているのなら、そこから何がしかのニーズを生み出すことも可能なのではないか。
電子書籍をめぐる議論がコンテンツビジネスの覇権争いに終始していることは、その渦中から少し距離をとりさえすれば誰の目にもあきらかだと思う。そこにはこれまでの歴史のなかで、書物をめぐって蓄積されてきた技術や経験に対する敬意は、ほとんど払われていない。大事なものはコンテンツとしてのテキストであって、それを読むための装置は、極端ことを言えばなんでもいいのである。
だが、果たして本当にそれでいいのだろうか。書籍において唯一無二、尊重されるべきはテキストであり、言葉の器は、それが紙であれ電子であれ、とくに意識を向けられるべき対象でない、それでいいのか。
いいわけがない。
試しに青空文庫にアクセスして、そこにアップされている夏目漱石の『こころ』をブラウザ上で読んでみるといい。あるいはそれをiPhoneのアプリで読むとどうか。もちろん、kindleでもkoboでも構わない。そして最後に新潮文庫版の『こころ』を読んでみてほしい。それらの『こころ』は本当に同じ『こころ』だろうか。言葉が、そこから立ち上がる風景が、同じものに見えるだろうか。
読書経験とは視覚を通じた言語の消費活動である一方、もっと全体的で総合的な体験でもある。手にしているデバイスの質、そのときの体調や環境、精神状態…ありとあらゆる要因が作用する、圧倒的に複雑な行為なのだ。その豊饒にして複雑な経験の契機となるのがまさに「書物」であり、テキストと読者の接点となるインターフェイスは、おそらく一般的に考えられている以上に重要で決定的な役割を担っている。それは文字サイズを自由に変更できるとか、そんなレベルのものではなく、人間が言葉と交感するその深度を変えてしまうような、それほどの影響力までも発揮する要素として存在しているのではないだろうか。このことは、無意識的/意識的であるかはさておき、じつは電子書籍メディアでも共有されている。それは現行の電子書籍のデザインが紙の本を志向していることからも明らかだ。技術的最先端にあるデバイスのデザインが、オールドタイプメディアの象徴とも言える紙媒体の書籍を目指しているわけだ(あくまでいまのところ、だけど)。
とするならば、やはり印刷とデザインは単にテキストに従属するだけの存在ではなく、いまだに実際的な効力をもった手段であり、そこには参照すべき文脈と鉱脈があると言える。


私はデザイナーなのでデザインのことから考えてみたい。
印刷もデザインも、具体的な技術として存在している。デザインについては少し違う印象を持つ人がいるかもしれないけれど、たとえば文字をどの書体、どのサイズで組むかという選択を支えるのは、具体的な技術だ。そもそもデザイン(ここではグラフィックデザインに限定して使っている)の発達は印刷技術の発展と切っても切れない関係にあるわけで、そのことひとつをとってみても、両者が具体的な技術であることは推測できる。
具体的であるということは、そのことについて語り、伝え、記録することが可能だということ。現在の人間は過去から学び、かつまたそれを次代へ伝えていく責任がある。そうやって、人間は少しづつ技術を発展させてきた。
でも、残念ながらすべての技術がそうあるわけじゃない。殊に印刷とデザインの場合はそうで、たとえばわずか半世紀前には現役で使われていた金属活字による印刷技術、いわゆる活版印刷は現在ほとんど死滅しかけている。90年代までは現役だった写真植字にしても、もはや使われていない。
活版印刷は写植技術の台頭によって、写植はDTPの登場によって、それぞれ世代交代を迫られた。イノベーションが起きて古いものが淘汰されていくこと自体は構わないが、問題はここで断絶が起きていること。過去の技術も経験も引き継いで次のステージへ行くのではなく、それを捨てる形での発展しかできていない。
そんなことはない、という向きもあるとは思う。だが、本当にそうなのか。結果的に何かを引き継いでいることはあるかもしれないが、それはあくまで「結果的に」というレベルでの継承であって、意図して行なっているようには思えない。もしも意図的な継承が行われているのであれば、DTPの登場によって日本語組版は革新的な発展を遂げていてもおかしくなかったはずだし、電子書籍メディアの組版のような、おそろしくひどい状況は現出していないはずだ(いまは大分ましになったとはいえ)。
日本のデザインに限定して言うのなら、結局、新しい技術と古い技術の間に橋をかけることのできないまま、ぼくらは定期的な断絶を繰り返して停滞しているのではないだろうか。

印刷はどうか。私は印刷技術者ではないから、印刷について書くとなるとそれは「印刷を取り巻く周囲の人間」についての記述にならざるを得ない。その点に保留を加えつつ語るのなら、デザインとは少し状況が異なるのではないかと考えている。
印刷の場合、シルクスクリーン印刷もグラビア印刷も、やろうと思えばいまでも実現可能である。ただそうした仕事を目の当たりにすることは非常に少ない。あまりに高コストのため、実際に使用することが難しいのだ。もしこのまま使われる機会が減じていけば、遅かれ早かれ技術は失われてしまうだろう。
一方で、一部の印刷フリークのあいだでは活版印刷の人気が高まってもいる。活字を組んでそこにインキを乗せ紙に刷る、その際に生じる手触りがいいと言うのだ。 ところが実際はこれだと本末転倒で、活版印刷に携わっていた人間たちはこの手触り=印圧をいかに無くすかに腐心していた。活版印刷を愛する人間の多くは、単純にいまの平滑で摩擦の少ない印刷物(ひいては社会や人間関係も?)への反動としての手触りを愛でているだけで、技術的な問題にまでは踏み込んでいない。
つまりベクトルは過去に向ってはいるものの、本質的な継承は意識されておらず、結果デザインを取り巻く状況とさほど変わらない断絶が生じているように思うのだ。もっとも、印刷の現場とのつながりを持たない私の書いていることなので、事実誤認もおおいにあるとは思う。とくに現場レベルでは活版ノスタルジーのようなことが生じているはずもない。問題は、一部の印刷フリークとデザイナーの側にあるのだろう。


イノベーションは今後も起きる、その度に古い技術は姿を消していく。これは必然だしその流れに抗おうとも思わない。けれど、その新しい技術のなかにかつての技術が姿形を変えて存在してくれていないと困るし、そうであるべきとも思うのだ。それも、意図的に。そうでないと、何かを継承することも、それを発展させることもできなくなってしまう。
デザインに限って言えば、どうしてデザインソフトはこんなにも便利になっているのに、ぼくらはチヒョルトのデザインよりも優れたものを作れないのか。どうしてポール・ランドやソール・バスのデザインに勝るとも劣らないものを生み出せないのか。過去のどの偉大なデザイナーの時代に比べても、技術も環境も整っているのに、どうしてぼくらはこんなにも不自由なのだろう。 懐古趣味に走れと言いたいのではない。過去のものだけが素晴らしいとも思わない。感傷的なノスタルジーはいらない。ただ、これからの印刷とデザインのことを真剣に考えるのなら、間違いなく過去を参照し、過去に立脚した上でないと、これ以上先に進むことは出来ないのではないか。


これからの20年のために、いま具体的な技術を継承したい。
では、なにをすることが具体的に技術を継承することになるのか。印刷のことで言えば、さきほど『play printing しくみを知って使いこなす、オフセット印刷、紙、インキ』という素晴らしい本が上梓された。たとえばここに書かれていることを丁寧に読み解き、実際に現場に足を運び、そこで行われていることに触れ、試し、今後の印刷にどのような可能性が残されているかを考えることが、具体的な技術の継承になるだろう。
デザイン、とくに日本語組版のことで言うのなら『日本語組版の考え方』という書物が存在している。ここに書かれていることを理解し、それを日常のデザイン業務のなかで検証していけばいい。
つまり、実直に愚直に、いま目の前にあって手の届く個別具体的な技術に正面から向き合い、その仕組みと原理を理解し、体得していくことが、まず先決なのだと思う。印刷とデザイン自体のフレームを拡張するのは、その先のことだろう。砂の上に城を建てようとしても不可能だから。


最後に、いまデザイン、とくに日本語書籍のデザインが直面している課題について触れておきたい。
90年代にDTPが登場したとき、日本語組版の担い手は印刷所の技術者からデザイナーへと替わった。その結果引き起こされたのは書籍組版の崩壊だったという。それからおよそ20年の時を経て、アプリケーションの精度は向上し、デザイナーの知識も高まり、いまようやく日本語書籍の組版状況はまともになりだしている。そんなところに電子書籍である。
電子書籍を目の敵にするわけではない。新しい技術を不当に貶めるつもりもない。ただ、いままたDTP黎明期と同じことを繰り返すわけにはいかないのだ。電子書籍は印刷された書物とは違って、テキストは定着していない。個々人の好みや感覚に合わせて、文字サイズも行間も書体も変更することができる。そのこと自体は素晴らしいことだと思っている。視力の弱い人や老年者にとって、文字情報へのアクセシビリティは飛躍的に向上するだろう。
でも、そのことを支える基本的なロジックが成立していないのだとしたら、やはりそこに現れる組版は水準の低いものにならざるを得ない。
なぜここまで組版についてうるさく言うのかといえば、それが文章理解に影響を及ぼすからだ。日本語は、約物・句読点・記号といった文字が機能的に視覚化され文章構造が可視化されているからこそ、意味理解を助けてくれる。逆にその構造が可視化されていない文章は非常に読みにくいものになる(たとえばすべて仮名で構成され句読点のない文章を想像してみてほしい)。 文章を読みそこに書かれている情報を理解、あるいはそれと交感することが読書の第一義の目的なのだとすれば、それを担保するには、これまでの日本語書式環境が培ってきた歴史を踏まえ、理解の促進を実現するデザインが必要だと言える。
文字をただ大きくしたからといって、それは視覚認識を助けはするが、必ずしも意味理解を助けはしない。そのことに、どれくらいの人間が自覚的なのだろうか。DTP黎明期と同じことを繰り返すわけにはいかない、と書いた。なぜか。またここで断絶が起きてしまうと、この20年間で持ち直してきたものが無駄になる。それに、いまここで継承をしておかないと、基準となるものがなくなってしまう。これからの20年では、定着メディアに文字が印刷されることがなくなるかもしれないのだから。


いまこのタイミングで継承と発展への足がかりをつけておくこと。それが出来なければ、印刷にもデザインにも未来はないのじゃないか。そんなことを考えている。でも、別に絶望しているわけではない。いつだってぼくらに許されているのは、やれることをやるという、そのことだけなのだから。
もしもこの文章を最後まで読み通してくれる人がいたのだとすれば、それは希望である。そして反発も賛同も、怒りも共感も、すべて含めて何がしかの反応が生まれたのなら、もう少し希望は大きくなるのかもしれない。









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