花形装飾活字を愛でる その206

形と仕組みの分離については、明確になったのは、「hug」と「fuji」の間にあった、「なめくじ」という、「水草」の形でもって、「fuji」の仕組みを取り付けた制作の時でした。もちろん、これは、どちらが正しいというものではありませんが、分離をする事により、作業を形式化し、ビジュアルに自由を与える事になりました。これは、グラフィックデザインにおける表現域を明確化する作業でもあり、グラフィックデザインという行動を伸びやかに実現する為のものでした。というのも、どうしても、今のグラフィックデザインというものは、描画としての技術とワークフロー、配置としての美的感覚、印刷への版の作成、などなど、種類の多い、あらゆる作業が1つにまとめられているのが現状にあげられます。その結果、純粋なる、グラフィックデザインの使命のようなものが不透明になり、どうしても、アート(表現)とデザインの比較論で語られるという、なんとも、頼りないものに頼るしか無くなるのですが、結果、グラフィックデザインの中からアートが疎外されてしまうのです。これって果たして正解でしょうか。ビジュアルを司る以上は、いずれか、どこかで、影響を受ける事になりますし、選択肢の中から無くした結果、昨今のような、ヒドクも孤独な状態になっているのは、何が原因なのでしょうか。まず、グラフィックデザインにおいて、アートという選択が出来ない事は、デザインの原則から言えば、とても変な事をしているのは、理解していただきいなと、感じています。今、結局、使い廻しているのは文字だけで、その他は制作している状況は、果たして、胸を張ってグラフィックデザインと言えるでしょうか。その時々のイメージに合わせた、判断されたものを作る事が、それが例え、個人ではなく、複数であっても、表現であり、アートとは言えないでしょうか。「hug」はそれらをより明確化した制作でした。それが全体でもいいでしょうし、一部でもよいのだと思います。技術における制限ではなく決定された美しさの定型化のようなものが、花形装飾活字なのだとすれば、「hug」というものの制作が見えてくるかもしれません。あらかじめ用意された「同じ」ものを使う事は、アートや表現でも、意識の部分も含めて作品という単位で積み上げられて同じ同一線上で残されていくものですが、デザインの場合、ある一定の方法が、ある一定のサイズで残り続け、変化せずに使われていく状態なのですが、其処に、どれだけランダムを与える事が出来るかが特徴であり、今までのfengfeeldesignの花形装飾活字の制作というものが、その逆算もまた可能である事の証明であったのではないのかなあと感じています。つまり、デザインとアートは、その性質の違いがあるものの、形成している素性そのものは同じだと言っちゃっていいような気がします。そして、それを「hug」でようやく、道具としての高まりを見た訳で、例えば、もはや筆のようなものを作れたという事は、これを使い、表現やアートを実現出来る所まで辿り着いた事が、正式なバージョンアップと呼んでいる由縁なのです。









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