花形装飾活字を愛でる その208

「hug」という大きな海について書くなら結構自由なので、気が楽だったりします。この文章でさえもかなり色々と書けてしまう訳ですが、なんといっても、肝はやはり、見た目の事になってくるように思います。ビジュアルは、というよりも、元々、10年くらい前にモチーフにしていたテーマを、ゴソゴソと持ち出してドローイングしたのが今回の制作になるわけですけども、凄く、その時、デザインと、表現について、の枠という、違いについても気付いた瞬間でもあるのですね(10年前に。違う、という表現が正しいのかどうかは、これは先日書いたもので、かなり否定をしてしまいましたが、明らかな違いも、同時に生じているのが分かった事が、この花が装飾活字に触れるきっかけでもあり、この「hug」が生まれた理由でもあるのかもしれません。あれは、あれ。それは、それ。てな具合で、それぐらいの違いの中で、より、詳細にその項目を調べていく行動でもありました。多分、重要な事は、その行動や知恵の範囲での違いによる障壁が、分類を分け隔てている現状ではないのかなと感じたのが、その答えの1つの道筋であったように思います。時間軸、で考えると、もしくは、要素で捉えてみると、デザインっぽいものは昔からあった、と言っても善いのですが、同時に芸術、表現っぽいものも、その前からあった、とも言えると思うのです。つまり、それが誕生した時点での認識と、それが、言葉になるまでの認識では、少し、モノごとが変わるのではないのかなというものです。言語化出来ないものは、人は、恐怖に感じ、突き放します。これは、表現の核みたいなものでもあると思うのですが、それは、デザインにもあります。「hug」そのものを形成する時に、今回のような、枝のような、根っ子のような見た目になる時に、それが単なる、形容詞であるように勤め乍ら、ビジュアルを作っていったように思います。確定的ではないこと、しかし、定義された世界である事。その中間を見る事で、「hug」のビジュアルは完成しました。だから、意識によって、まったく違うもののように見えるかと思います。近所の小学生からは「昆虫っぽくて気持ち悪い」って言われちまいましたから…。それくらい、自分達が見ている世界、形、ビジュアルというものは、イメージで支配され、同時にそれが、表現として研磨されたものが芸術として昇華されていく現状を見ても、やはり、デザインというものの本質が、何やら、表現、芸術を、基にしているように思うのです。同じものでは、ない、が、それを支配するのは視界に入るビジュアルであるという事実は逃れようのない真実であり、それを花形装飾活字に触れる事で、まざまざと思い知らされてしまうのです。









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