花形装飾活字を愛でる その209

なにやら熟々と書いてしまいましたが、どうやら、「hug」では仕組み的な面白さもあるものの、そういった、絵を描く、そのものについて少し触れたいと思ったのかもしれません。芸術とは、なんたるや、なんて、そういうのは、それを高めた人に喋ってもらうとして、ある一定の枠の所で、取り決めたなんとやらのおかげ、本来、機能するはずのものが機能に至らない現状というものが、まざまざと目の当たりにしたのが「hug」の制作であったように思います。時に、所謂ところの芸術領域の作家の方の画をグラフィックデザインとして扱う場合に、その大きな壁というか、違うはずの無い根本のはずが、何処かでリンクしない事になってしまっているように感じたのです。趣向が高まれば、それに応じたニーズで作業を行えるものではありますが、グラフィックデザインの領域で培った事の無意味さたるや、芸術領域を高めた人達との対話において自分達のやってきた事とはなんであったのかを、深く、考えさせられるかと思います。意味の持ち方なのでしょうか、捉え方なのでしょうか。その点、花形装飾活字というものが残り続け、人々から愛されているのを見ていると、グラフィックデザインとしても成立されており、芸術的な視点からも見つめられ、ただただ、羨ましい存在だなーと、感じるばかりです。今、それが可能かどうかと、問われてしまうと、確実に二分しているような気がします。グラフィックデザインである事、芸術である事。そのどちらかでしかないのは、果たして、当時より発展したと言えるでしょうか。何故でしょうか。これらの違いというものは単なる見方の象徴の違いであり、構成されている成分は、もはや同じなのに、どのような所で違うものとして認識されてしまったのでしょうか。これは、正すべくものであるかどうかも疑問の余地が残りますが、1つ言える事は、私達は、この花形装飾活字というものを楽しめるだけの美意識や知識を持ち合わせているのかという疑問くらいなものなのかもしれません。もちろん、それが使われてる文化を自分達がちゃんと保有しているかどうかな気がします。単に技術の点での優位性で語る事も、もちろん可能ではありますが、その前にやらねばならん事があるような気がしていて、それを「hug」では伝えたいと思ったのです。「hug」は入門であるように思います。水草は難解ですけどw(ただ、自由で直感的ではある。)。ただ、それがスターターキットという訳ではなくて、花形装飾活字というものにfengfeeldesignが触れてきた結果、今のイラレという技術を含めて、あらゆる点で、スタート地点にようやく立てた制作であったとも言えるような気がします。言わば、デザインという手法を利用して、芸術という概念に容易く触れられ、あたかも、その人が描くキャンバスの前に居るがのごとく、状況を作り出し、印刷を実現する事。これこそが、fengfeeldesignが目指した花形装飾活字での制作であり、研究の結果、得られた、私達が捉えるべき花形装飾活字の姿なような気がするのです。









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