花形装飾活字を愛でる その210

ここまで書いてきた事というのは、何も局地的で、此処だけの話し、というものではないと思います。音楽のシーンでも、アートのシーンでも、そういう現象って起こっていると感じていて、もしくは、本来、そうであったのが、段々と、理解する人達の中で育まれて、キチンと形になって目に耳に感じる事が出来始めている状態とも言えると思います。それを強く感じたのが、kajico(http://kajico.org)やナデガタインスタントパーティ(http://www.nadegatainstantparty.org)になりますでしょうか。ムジカイーゼル、もしくは、ラベンダーピローの動きそのものでもある辰巳さんがそうかもしれません。それが作品化する瞬間がもちろんある訳ですが、それを仕組む動作やシーンの構築は、まるでデザインそのものであるように感じるのです。手法が特異なのは、たしかにあるのですが、紛れも無く、その行動にデザインを見る事が出来ます。その結果、芸術的な作品が生まれている状況がある、という事も事実として捉えた方がいいのかもしれません。それは、デザインと芸術とが、別ものであるという意識から、既に遥か遠く先へ行く話しであり、もっとリアルタイムにモノごとは起こっているのです。とくに、傾向として、デザインを利用した仕込み的な部分を芸術は利用する傾向にあるように感じていて、それを見るに、過去に、花形装飾活字で起こっていた事が、リバイバルし、サンプリングとしてのデザイン、それを謳歌する芸術として、別々の道筋ではなく、実は、1つの1本の道筋として存在していたのではないかという考えを、今は持っています。そして、既に、次は何を見るか、という視点に立っているタイミングにあり、デザインというものが、もはや、伝統芸能並の意識の古さを持つ事になりそうな予感さえしています。果たして、自分がやっている事とは何なのか、それを知るきっかけとして、エンスヘデの花形装飾活字は、とても参考になる素晴らしき資料なので、ぜひぜひ文章をお待ちしております、なのですが、それをfengfeeldesignでは、あくまで、デザイン、とくに、グラフィックデザインを基にしながら、花形装飾活字という範囲の中で、西洋を廃し日本という視点で発展をつくっていく動作の中で、作り上げた最先端が「hug」にあたる訳です。ただ、これは、花形装飾活字である以上は、芸術への昇華は難しく、それが使われる事で、その役目と成立を委ねているという所に、なんとも言えないもどかしさがあります。ていうのも、fengfeeldesignがもし使ってしまい、芸術としてしまった場合に、それはもはや、道具としての価値を失い、fengfeeldesignのものになってしまうので、そこだけは、どうかして避けたいのです。だからこそ、なんですが、fengfeeldesignが取り扱う花形装飾活字というのは、あくまで組み見本として扱う場合がほとんどで、本来は、第三者の誰かが使い、それが、芸術として扱われる事によって、fengfeeldesignが作った道具、ルール、仕組みとしての誕生を見る事が出来るのです。









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