花形装飾活字を愛でる その211

最近のデザインが、とても感覚的になってきている印象があります。ほんの2年前のものを見ていると、ほんのり感覚が浮き出る程度だったのですが、今は、全面が感覚によって支配されていて、見る場合にも、これが善い、あれが善い、という感じで、確定的な部分ではなく、あ、なんだかいいなーというぐらいの、なんともフワフワした、まさしく感覚で捉えるような見方をしているような気がしています。それに関して言えば、やれ、そんなのはグラフィックデザインではないとか、これ、そういう見方をするもんじゃないとか、古臭い、爺さんみたいな事を言うつもりではなく、それは、リアルタイムに生きている人達が楽しむ趣向のようなものの変化であり、それに合わせて、変わっていくものであり、だからこそ変わらないものの膨よかな表現が存在するという話しだからなのですね。これは、恐らく、昔から繰り返されている事だと思っていて、デザイン、という、ある程度に確定された意識で構成した思想から、少し、何かが変わりつつある、という事だと思うのです。絵画で見てみると、レンブラントとフェルメールって、同じオランダで、時系列も良く似た時代に活躍した画家なんですが、レンブラントの方が古臭く感じ、フェルメールは少し新しく感じます。ほんの少し、ほんの少しだけの差なんですが、レンブラントは、これは僕の印象としては、感覚で描いていたのではないかなーと想像しています。感覚を技術で表現した、みたいな。逆にフェルメールの方が、若いんですが、技巧派というイメージがあります。なんというか、技術に感覚をウマい事よいしょってした感じなんですよね。技術と感覚のバランスで、こんなにも描かれる対象や、印象が変わるのはとても面白い事だなと思います。ルーベンス、ハルスを見てみると、時代は彼らより古いのに、より感覚的な絵画が多いような気がします。ハメパターンが出来上がる一歩手前の充実感のような…。つまり、感覚が先行している今の状態というのは、何かの技術の基でそうなっているし、感覚と技術が飽和状態にある時に、このような状態になるのではないか、と考えてまして、技術が安定しているからこそ、感覚的になれる、そして、感覚が進行する事によって、新しい技術が登場し、感覚が、また1から育まれていくような、そのような繰り返しが、ずっと行われてきていて、その1つの流れがデザインであった、というだけの話しのように思うのです。今、しかも、デザインの過渡期だと感じています。それは今までの歴史推考から言っても、かなり、そうだと思います。素晴らしき技術は古くても残り続けていきますが、感覚は、どんなに素晴らしくても、時間が流れると淘汰されます。淘汰されなかったとしても、実現が不可能であったり、過去であったりします。今、fengfeeldesignが花形装飾活字に対して、何故に、こんなに熱くなって接しているかというと、デザインの過渡期だからこそ、純粋に、デザインという思想、もしくは感覚が生み出した素晴らしき技術の継承を、今、行う事で、後世へ残す為なのです。この技術は残るべき、だと思うからなのです。残す事で、次の新しい感覚の中で、この技術は花を咲かせる事でしょう。実際に、既に古い技術ではありますが、それらを汲み取り、感覚と照らし合わせ発展させる事で、「hug」という素晴らしき、花形装飾活字を生み出す事が出来ました。感覚的な状態になってるからこそ、デザインが何を生み、何を技術として残した、のかを考え動く事は、今のデザイナーの使命のようにも感じています。









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